生誕 天文6年(1537年)

死没 天正1064日(1582623日)

幼名 才太郎

別名 長左衛門

父母 宗則

兄弟 宗知(月清入道)、宗治、難波宗忠

妻 石川久智の娘

子 宗之、景治

法名  高松院殿救溺祐君清鏡宗心大居士

たかまついんでんきゅうじゃくゆうくんせいきょうしゅうしんだいこじ



天文6年(1537年)、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)に生まれる。

備中国の一豪族の家臣の身分で備中清水城の城主を務め、のちに高松城の城主となりました。

この経緯については諸説あるのですが、一般的には天正の備中兵乱の際、三村氏譜代・石川氏の娘婿・重臣の立場でありながら毛利氏に加担し、高松城主の地位を得たとされています。

この備中兵乱は文字通り備中一円を舞台とした三村氏対毛利氏の一大戦で、三村氏家臣の立場でありながら毛利方についた者は他にもおり、状況判断の問題でした(三村親成など三村姓を名乗る三村一門でさえ、毛利方についた者がいる)。

また、永禄8年(1565年)に三村氏譜代の石川氏を裏切って高松城を奪取し、直接毛利氏に臣従して城主となったとの説もあるが、当時の毛利氏は備中を三村氏に任せる間接支配の体制を採っていたため、この説は信じ難い(備中方の資料にあたっても挙証に足るものはない)。

いずれにせよ、毛利氏の家臣となって以後は小早川隆景の配下として毛利氏の中国地方の平定に従軍し、忠誠心厚く精励し、隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼されていました。

天正10年(1582年)、統一政策を進める織田信長の家臣・羽柴秀吉が中国攻めを行うと、宗治は高松城に籠城して抗戦。

秀吉は降伏すれば備中国を与えるという条件を出したが、宗治は応じなかったと言われています。

そのため、黒田孝高が策した水攻めにあって城は落城寸前に追い込まれました。
この水攻めの最中の
6月に京都で本能寺の変が起こって信長が死去し、その報を知った秀吉は宗治の命を条件に城兵を助命する講和を呼びかけました。
宗治は信長の死を知らぬまま、その数日後に兄の月清らとともに水上で切腹しました。享年
45

墓所は山口県光市の清鏡寺にある。

宗治の息子、源三郎は小早川隆景の三原城へ人質にだされていました。

人質というのは、同盟者が裏切らないために主君に大切な家族を預けるのです。

自刃の前日、宗治は源三郎に「身持ちの事」という書状を残しました。

今でいう遺言書です。

この書状を源三郎、後の景治(かげはる)は肌身はなさず持ち、萩の屋敷でなくなったときもお守り袋の中から出てきたという話が残っています。

 

  身持ちの事

    恩を知り 慈悲正直にねがいなく 辛労気尽し 天に任せよ

   朝起きや上意算用武具普請 人を遣ひてことをつゝしめ

   談合や公事と書状と意義法度 酒と女房に心みたすな

       六月三日                清鏡宗心

 

切腹の前日に、秀吉に恨み一つ、悔しい思い一つしたためるでもなく、別れをおしむわけでもなく、10才前後の息子に残した三行の遺言。

ユーモア、短文、センスのよさ、宗治らしい親としての暖かさが感じられる遺言のように感じます。 現在、山口県光市文化センターにて保管されています。

 




                                              清水宗治 45歳


                                              兄の月清 病弱の為 僧籍


水攻めの際には、宗治と、宗治の兄月清入道(宗知)、弟の難波伝兵衛(宗忠)が共に自刃をとげています。(自刃は毛利からの加勢、末近を加えた4)


難波伝兵衛

清水宗治の実弟、清水の本姓「難波」を名乗りました。

兄宗治と共に働き、水攻めの時城内に篭城、しかし6月4日宗治自刃の際それに殉じ、切腹しました。

宗治の6男を養子にもらい、死後はその養子難波伝右衛門が家督を継いでいます。

 

羽倉城主(広島県久井町)末近四郎三郎信賀

末近信賀(せちかのぶよし)は毛利からの加勢として備中高松城に入っていました。

宗治が自刃を決意したときに、毛利家からの者として共に自刃してほしいとたのんだと伝えられます。

辞世の句は、「敵とみえしは群れてる鴎(かもめ) 鬨(とき)の声と聞こえしは 浦風なりけり 高松の朝の露ぞ消えにける」 

(備中高松城資料館の展示物より)



切腹について

戦国時代以前の武士道において、切腹の作法は確立していなかった。切腹の例はあったが、単なる自殺の手段のひとつであった。無念のあまり行う「無念腹」のように、内臓を引きずり出すなど、その凄惨ぶりを披露する場合もあった。

また、戦において捕らえられた高い身分の武士も、大抵は首を刎ねるのが普通であり、切腹させるといった習慣は無かった。場合によっては磔にする事もあった。

切腹の作法が変化する転機となったのは、この清水宗治の切腹からといわれています。

水上に舟を漕ぎ出し、そして切腹の前にひとさし舞ったのち、潔く腹を切り、介錯人に首を刎ねられた清水宗治の作法は見事であるとして、それを実際に見た武士達の賞賛を受けました。

秀吉は信長の敵討ちのために一刻も早く京へと戻りたいところでしたが、「名将・清水宗治の最期を見届けるまでは」と陣から一歩も動かなかったといわれています。

また、後に小早川隆景に会った秀吉は「宗治は武士の鑑であった」と絶賛したといいます。

これ以降、武士にとって切腹は名誉ある死という認識が広まり、また刑罰としても切腹を命じる習慣が広まった。後に秀吉は、豊臣秀次、千利休らを処罰するにあたって、切腹を命じています。


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