西郷千恵子(1825〜1868年)(西郷千恵)は一男五女を産んだとされますが、長男の吉十郎はョ母と一緒に鶴ヶ城を出て、女の子たちは西郷邸にて命を落とします。
しかし、2歳とか4歳の女の子が…と考えると、かなりつらい場面ですね。
毅然とした千恵子は、幼い子どもたちを刺してから自刃したのでしょうか。
一族21名自刃の際の、千恵子の辞世の句です。
意味は「か弱いなよ竹のように、風にまかせて揺れ動くような女の身ではある。ただ、なよ竹にはけしてたわまない節があると聞く。(私も、節義に殉じてみせる)。
主な自刃者
祖母:80歳以上
母(ョ母の母):律子、58歳
千恵子:36歳
長女:細布子(たえこ)、16歳
次女:瀑布子(たきこ)、13歳
三女:田鶴子、9歳
四女:常盤子、4歳
五女:季子、2歳
頼母の妹:眉寿子(みすこ)、26歳
頼母の妹:由布子(ゆうこ)、23歳
各々に辞世の句を残しているという、あまりに品性を保った潔い死であったと言えます。
さらに他の一族の女性も集い、西郷家9人、小森家5人、町田家3人、浅井家2人、西郷家2人の、合計21人の集団自決。
ちなみに、NHKの八重の桜ではこの女性たちの名前はすべて「子」を抜いた形の、細布(たえ)や眉寿(みす)などになっていたようです。
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自刃の後、この西郷屋敷に乱入したのが土佐藩兵で、かつ後に衆議院初代議長になった中島信行と言われていますが、その時に、死にきれずにいたおそらく細布子(たえこ)と思われる女性が、敵か味方かということを尋ね、土佐藩士は、その女性を思いやって味方だと答えてから、細布子の願いを聞き入れ、首を斬ってやったと伝わります。
もっとも、中島信行は土佐藩を脱藩しており会津戦争には参加していないはずなのですが・・・。
これが中島であろうがなかろうが、土佐藩士であったことに間違いなく、官軍風をふかして悪行三昧を重ね悪名を巻き散らかした、某南端の大藩とは大違い、さすが土佐藩に於いて人倫教育が行き届いていたということでしょうか。
籠城戦でも、その他の戦場でも、会津の数多の人たちが命を落とし、某南端の大藩の意向で、亡骸を葬ることさえ許されなかったと伝わっています。
なので、この一族だけが壮絶な死を迎えたのではないけれど、西郷家の自刃は、会津の凄惨な死の象徴のようです。
時は1868年の8月23日とされ、白虎隊の少年たちが自刃したのと同じころ。
なぜ、城が落城したと確認もせず勝手に想像し「戦わずして自刃した白虎隊」がもてはやされ、「実際に戦った二本松少年隊のことを、取り上げない・・・もっと評価すべきだと思いますが・・・
八重たち籠城で闘った者たちは、西郷家などのことも、白虎隊のことも、中野竹子たちのことも、次々と知らされながら闘ったことでしょう。
ちなみに西郷ョ母は、会津戦争においても藩主の容保に恭順を強く勧めて任を解かれ、いわば追放されたようにして会津を出ていかされていました。
柴五郎の家族も、内藤介右衛門の家族も、面川泰雲寺で自害しています。
戊辰戦争で死んだ会津藩の女性は233人にのぼるという。
※ (2013年1月2日に新春ワイド時代劇として放映されたテレビ東京のテレビドラマ「白虎隊」では、西郷千恵子を黒木瞳が演じていた)
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1850年生まれ、1868年10月10日没 享年18
会津藩江戸藩邸で生まれ、幼き頃より薙刀の腕を磨く。
戊辰戦争では、母・こう子や妹らと「娘子軍」を結成し新政府軍相手に奮戦するも、被弾。
身内の手(母、妹の説あり)により介錯され果てた。
きりっとした目元がとにかく凛々しい。会津藩でもその美貌は有名だたらしい。
(八重の桜では、黒木メイサが演じていた)
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