鶴姫(つるひめ、大永6年(1526年)? - 天文12年(1543?))

戦国時代の伝承的女性。姓名は大祝 鶴(おおほうり つる)。

伊予国大山祇神社(愛媛県大三島)の大宮司・大祝安用(おおほうり やすもち)の娘。

兄に大祝安舎と大祝安房がいる。



大山祇神社は、数々の武将たちが戦勝記念とそのお礼に奉納した甲冑や刀剣類などが数万点あります。源義経奉納の赤絲威鎧
(あかいとおどしよろい)、源頼朝奉納の紫綾威鎧、河野通信奉納の紺絲威鎧兜などが有名で、国宝・重要文化財に指定されている武具甲冑類の8割はここにあります。

山中鹿之助の奉納した長い刀も必見です。


一般的な鶴姫伝説は、小説『海と女と鎧』が元になっているといわれいています。

これは、社伝の『大祝家記』に現れる鶴姫をモデルに、紺糸裾素懸威胴丸が鶴姫使用の物との想定で描かれています。

元々大祝氏は、伊予河野氏の一門です。

戦国時代となり、周防大内氏が中国地方や九州地方で勢力を拡大し、河野氏の勢力下である瀬戸内海でもその勢力は拡大の一途を辿っていました。


大祝氏は代々神職として戦場に立つことはありませんが、戦が起きた場合は一族の者を陣代として派遣していました。

1534年(天文3年)に大内氏が侵攻してきた際には、兄の安舎が陣代として出陣し、大内軍を撃退しています。

1541年(天文10年)にも大内氏配下の水軍の将・白井房胤らが侵攻すると、神職となった兄・安舎に代わって安房が陣代となりました。

安房は河野氏や来島氏と連合して迎撃、大内軍を撤退させることはできたものの、安房は討死を遂げました。

同年10月にも大内氏が侵攻すると、安房に代わって16歳の鶴姫が陣代として出陣し、大内氏の武将・小原隆言を討ち取っています。

1543年(天文12年)6月、2度の敗北に業を煮やした大内義隆は、陶隆房の水軍を河野氏の勢力域に派遣、瀬戸内海の覇権の確立を目論みました。

河野氏とその一門は全力で迎え撃つが、鶴姫の右腕で恋人とも言われる越智安成も討死。

鶴姫は残存の兵力を集結させて最後の反撃を行い不意を突かれた大内軍は壊走し、鶴姫らは勝利を収めました。

しかし鶴姫はこの戦の後に兄や恋人を想い、18歳で入水自殺したと伝えられています(鶴姫伝説)。




鶴姫が着用したとされる胴丸が大山祇神社に展示保存されています。

これは、胸部が大きく膨らんでおり、逆に腰部が細くくびれていることから、現存している中では唯一の女性用の胴丸とされています。

現在、鶴姫の一生を題材にした鶴姫祭りが毎年行われています。



紺糸裾素懸威胴丸

紺糸裾素懸威胴丸(こんいとすそすがけおどしどうまる)は、日本に現存する唯一の女性用胴丸であるとされています。

その由来は不明ですが、1959年に重要文化財に指定されました。

紺糸裾素懸威胴丸が鶴姫使用のものと直接伝えられているわけではないものの、三島安精は、自著「つる姫さま(海と女と鎧)」において、紺糸裾素懸威胴丸を鶴姫が使用したと推定しています。

大きな特徴としては、胸部が膨らんでいる一方で腹部は細く作られ、草摺の間数が115段仕立てと一般の胴丸より多く、脇部分は「仕付脇引」(しつけわきびき)と呼ばれる特殊な構造をとっていることが挙げられる。

大山祇神社所蔵の同胴丸を含め、日本に現存する甲冑では3例ほどしか確認できない特異な仕立てだという。

 

郷土史家の喜連川豪規(きれがわひでき)氏は1980年代において、「鎧が生んだお姫さま」とのコメントを残し 、201168日放送の『歴史秘話ヒストリア』においても、この鎧から鶴姫の伝説が生まれた旨の説明をしており、一般的な解釈としては、あくまで伝説的な人物という事になっています。

社伝などの伝説は、僅かではあるが何らかの反映するものがあり、ロマンでもなく、社伝等を単なる伝承として一刀両断に切り捨てることが、正しい歴史研究とは思えないのですが・・・。


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Gの外付けハードデスクが、突然死を迎え、御臨終になりました。
その中に「辞世の句関係の写真」30人余りが・・・一緒にお亡くなりになりました。()
従って、当分行けそうにないので、今回はパンフレットから転用させて頂きました。

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