生誕 1563(永禄6)

没年 1600825(慶長5717)

戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。

明智光秀の三女で細川忠興の正室。

かなりの美女でありかつ聡明な人物だったらしい。

父・明智光秀は、大変優秀な武人であり、また茶道や華道にも精通していた教養人であったがために当時の羽柴秀吉(豊臣秀吉)や前田利家とは、ちがった寵を主君織田信長からうけていた。

玉もその血筋により、幼いころから文学をはじめ、茶道・華道などに精通し、また明智家の女性の中でもひときわその美貌が輝いており、明るく素直な性格は光秀の自慢のひとつでもあった。

玉が16歳になったころに、織田信長の薦めで、源氏の流れをくむ名家細川藤孝(幽斎)長男忠興との結婚が決まった。

天正10年(1582)全国を平定しようとしていた織田信長に対し、突然、玉の父明智光秀が謀反をおこし、織田信長を本能寺で倒すという歴史上の一大事が出来。

細川家の慌てようは、只事ではなく、重臣をあつめての会合がおこなわれた。

このころ細川家は丹後宮津城主になっており、重臣会議の答えは、玉を何らかの形で処分しなければ、世間に対して立場がなくなるというものだった。

忠興は、若さも手伝ってか、自害させるなどもってのほか、離縁もしないと重臣のまえで言い切った。

結果として、ほとぼりがさめるまで玉の身を隠すことにした。

優秀な武将である忠興にそうさせるだけの容姿と性格を、玉は持ち合わせていたのであろう。

玉はこの時、夫忠興のなみなみならぬ愛情を感じていたと思われる。

忠興と離れてくらすのは、寂しいが自分も忠興の愛に答えるべく、生まれたばかりの子供とも引き裂かれ「味土野へ旅立つことになる。

2年間味土野の孤立幽閉中、いろいろな考えが頭のなかで混乱していた玉は、ここではじめて小侍従マリアからキリスト教を知ることになる。

なにかにすがりたい孤立感がキリスト教へ没頭していく玉を後押ししていた。

「逢うとみて 重ぬる袖の 移り香の 残らぬにこそ 夢と知りぬる

「恋しとも 言わばおろかに なりぬべし 心をみする 言の葉もがな

玉の感じた孤立感が、忠興を恋する歌の中にも感じられる。

時には家臣がここまで押しかけて自害をすすめてきたが、忠興殿の妻なので殿の命令でなければ死にませんと言い返している。


夫忠興の友 キリシタン大名・高山右近の像


そして、ようやく迎えがきた。
幽閉中に豊臣秀吉が天下を平定し、秀吉から忠興に一緒に暮らせとの命があり、はれて玉は、大坂玉造の細川屋敷に夫婦・子供と一緒に生活することになるが、宮津城には忠興が側女をおいており、なおかつ妊娠までしていたことに玉は、衝撃を受け激怒する。

この時代、側室を囲うのは当たり前のことであるが、忠興の重大な裏切りだと受け止めた。

味土野の2年間で玉は、素直で美しいだけの女から世間の常識ではなく、自分の頭で考えることを知った女に変身していた。

味土野幽閉は忠興の愛と信じていた玉にとって、猜疑心は拡大、次第に夫を客観的な目でみるようになった。

味土野で研ぎ澄まされた神経をもつ彼女は、妻以外に女を持たず、命をかけて自身を貫き通した父・明智光秀と忠興を比べはじめた。

そんな思いがますます大きくなり心が満たされない玉は、忠興の友、高槻城主高山右近や小侍従マリアなどの影響でますますキリスト教に傾いていた。


越中井から少し歩いたところにカトリック教会があり、細川ガラシャ像が立っています。

ガラシャが洗礼を受けてまもなく、豊臣秀吉が逝去し、再び天下が乱れはじめ、豊家奉行石田三成と徳川家康の
2大勢力が真っ向から対決する事態になった。

関ヶ原の戦いが勃発する直前の慶長5年(1600年)716日(824日)、夫が徳川方につき上杉討伐のため不在となった隙に、大坂玉造の細川屋敷にいた彼女を、西軍の石田三成は人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。

その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは家老の小笠原秀清(少斎・正斎)に、槍で部屋の外から胸を貫かせて死亡。火薬に点火し屋敷を焼滅させた。享年38

キリスト教では自殺は大罪であり、天国へは行けないという教えが一般的なため、槍で部屋の外から胸を貫かせたという。

このことを知った忠興は、関が原の戦いでは、命を惜しまず戦い、徳川方の勝利に多大の貢献をすることになり、丹波、豊前と国替えを重ねて、子の忠利(母ガラシャ)の時に、肥後42万石隈本(熊本)藩主となった。

忠興は終生ガラシャの菩提を弔い、月命日には供養を一度もかかさなかったという。

 

一般的に言われている辞世の句としては、

《訳》 花も人も散りどきを心得てこそ美しいものよ。

細川越中守の屋敷跡と伝えられている場所で、屋敷の台所があったとされるところに
「越中井 細川忠興婦人秀林院 殉節之遺址」という石標が立っています

面の文字は、徳富蘇峰、側面は新村出の筆だそうです。

明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でもこのように呼ばれる場合がほとんどです。

元々は怒りやすい性格だったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強くなったといわれています。

凄く美人だったそうで、当時絶世の美女と言われた信長の妹お市の方(肖像画が高野山持明院蔵に所蔵されている)に似ていたかもしれませんね。

エピソードには

ガラシャに見とれてしまった庭師を夫忠興は手討ちにしてしまった。

凄い事に、玉はその返り血を浴びた打掛を何日も着て夫忠興に無言の抵抗をしたそうです。それを見た夫忠興に「そなたは蛇の様に執念深い女じゃ」と言われ、なんと玉は「鬼のようなあなたの女房には蛇の様な私がお似合いでしょう」と言い放ったそうです。

本当に、夫婦仲はよかったのでしょうか?

丹哥府志によれば、「硯の中に手ずさみが様に書捨てる和歌あり、其侍婢より伝へて世に残る、今かたみとなりぬ」とあります。

 

《丹哥府志》

忠興の妻は明智光秀の女なり、父光秀の信長を弑せし時野間の味土野に禁錮せらる、後大閤の命あるによって許されて還る事を得たり、大閤伏見にある頃諸侯の妻を召して饗されし事あり、是時忠興の妻覚悟を極めていふ、傍に人なふして女の人に見ゆる事やあるまじきとて、懐に匕首を用意せり、是によって秀吉の奸悪止みたりといふ。

 

慶長五年の秋関東の軍奥州に下りし時、大阪の奉行其軍に従ふ諸侯の妻子を皆城中に取り入れて人質とす、蓋其皆大阪の味方とならんを謀るなり、独り忠興の妻城内の取篭られんは恥辱なりとて敢て入る事を肯ぜず、其伝役河喜多石見、小笠原正斎も亦いふ、公の関東に赴かせし時吾等を戒めて曰、何等の変ありとも武将の恥なからん様に汝等はかろうべしと仰置かる、若し奪ひ取らんとせば其時思召す儀にぞと申ける、かかる處へ再三の使に及ぶ皆これを辞す、七月十七日の未の刻斗りに大阪の兵五万余り玉造口の屋敷を取巻き必これを城内に入れんとす、忠興の妻少しも動せず予て斯くあらんと覚悟せりとて、十歳のなる男子と八歳になる女をさし殺し家に火を放たしめて自殺す、於是大阪の奉行色を失ふ、却て諸侯を関東の方人とするなりとて是より人質の沙汰に及ばず遂に田辺を攻むるに至る、其硯の中に手ずさみが様に書捨てる和歌あり其侍婢より伝へて世に残る、今かたみとなりぬ。

「先たつは 同し限りの 命にも まさりておしき 契りとそしれ」

玉子夫人の最後の実況は「霜女覚書」に詳かにあらわされています。

「霜女覚書」というのは、偃武の後忠興の孫光尚の請によって、その時の侍女霜女が当時の顛末を書きとめたものです。

 

あれほど細川家のために自害をすることをためらっていたガラシャが、最後に細川家の妻として細川家のために自害をすることになってしまう・・・結局、命をかけて自身を貫き通した父・明智光秀のように、「優柔不断ではなく、権力に屈服せず」という自身の生き方を貫いたということでしょうか。それとも、キリストのもとへ喜んでいったのでしょうか。

なんとなく、光明皇后の「藤三娘」に通じるものがあると思えてなりません

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