生年 永禄元年(1558年)異説あり

没年 天正8年1月17日(158022日) 享年23

改名 小三郎(幼名)、長治

戒名 英應院殿剛覚性金大居士

墓所 法界寺(霊廟)、雲龍寺(首塚)

官位 従四位下・侍従

氏族 別所氏

父母 父:安治、母:浦上氏

兄弟 弟:友之、治定

妻 正室:照子(波多野秀治の妹または娘)

子 竹姫、虎姫、千松丸、竹松丸



元亀元年(
1570年)、父・安治の病死により叔父の吉親・重宗を後見役に若くして家督を継ぐ。

別所氏は早くから織田信長に従っており、家督を相続した長治も天正3年(1575年)10月に信長に謁見、翌年も年頭の挨拶に訪れている。

信長が中国地方の毛利氏を制圧しようとすると、それに呼応して先鋒の役を務めようとした。

信長に背いた理由は、中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であり、秀吉との意見の対立とか、二人の叔父の諍いとかもあったという。特に叔父である別所吉親の影響力が最も大きかったとされる。

波多野氏との関係や、伊丹の荒木村重や英賀城の三木氏と共に宗教上の理由もあったとされている。

比叡山焼き討ち、石山本願寺との戦いなど、天下統一のためとはいえ、信長の酷薄性が彼らを追い詰め、長治本人も不満を抱いていたようだが善意の保守性を増幅させ、何かと縁があった毛利方に傾いたのではないかともいわれている。

毛利家の庇護を受けている15代将軍・足利義昭の調略を受けてのことであるという説もある。

複合の原因で、突然、妻の実家である丹波国の波多野秀治(明智光秀と対峙した)と呼応して信長に反逆した。

多くの周辺勢力が同調、従わなかった勢力も攻め、東播磨国一帯が反織田となった。別所長治に同調しなかったのは、加古川城の城主・糟屋武則と阿閉城(あべじょう)の城主・別所重棟の2人だけであった。

これに驚いたのが小寺官兵衛(黒田官兵衛)である。小寺官兵衛の妻・櫛橋光の父で志方城の城主・櫛橋左京進(櫛橋伊定)が、別所長治に同調して織田信長に反旗を翻したのである。

さらに、小寺官兵衛の親戚に当たる明石城の明石左近までもが、別所長治に同調して織田信長に反旗を翻したのである。

黒田官兵衛の母親が明石家の明石岩[岩姫]。

これにより長治は、信長の命を受けた秀吉の軍勢に攻められることとなり、長治は三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせ、さらに荒木村重の謀反や毛利氏の援軍などの好条件も続いて、一度は織田軍を撃退したものの、やがて秀吉の「三木の干し殺し」戦法に遭い、神吉城や志方城などの支城も落とされ、毛利氏からの援軍も途絶えた。

三木市には、40幾つもの土塁・付け城があったとされ、現在確証されているのは27ヶ所も残っており、三木の地は、ほぼ完全に織田方に占領されていたといえる。 

食糧を絶たれ飢餓の断末魔、人々は藁や土壁を食べ、戦いに必要な牛馬を食べ、果ては人肉までむさぼったとされる。

城中に食量は十分備蓄していたが、町人や農民が城内に逃げ込み、人口が何倍にも膨れ上がったため、不足することになった。

ということは、非戦闘員である民百姓を追い出さなかった。

そして、長きにわたって内部で反乱がおきなかったということであり、このことは声高に称えられるべきではないかと思うのだが・・・。

遂に籠城してから2年後の天正8年(1580年)正月、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害した。

介錯は家臣の三宅治忠が行ったという。

長治は享年23だが、『信長公記』では26とされている。

「北摂三田の歴史」(北康利著)等で紹介される『上津畑ノ庄茶臼山記』と言う史料によると、家臣の後藤基国(後藤又兵衛の父)が、長治の千代丸という8歳の子を乳母、家来とともに上津城に逃がし、同城落城後に千代丸は帰農したとされている。

三木城跡の上の丸公園には、辞世の歌碑と、近年地元のライオンズクラブが寄贈した長治の騎馬武者石像が立てられている。

年若く人望も厚かったでのあろうが、しかしながら、中世の倫理感・概念に捉われすぎて時代の流れが見えず、一族郎党を滅ぼしたともいえる。

 

織田信長は、比叡山天台宗や石山本願寺一向宗にしても宗教を否定・弾圧はしていない。政治に口出しし、他の戦国大名と連携して反信長を標榜、実力行使に及ぶゆえそれらに対しては徹底して潰したわけで、政治に関与しない石山門徒派等には保護・寄進などをしている。

この地には、「三木の干殺し」と呼ばれる戦法を献策したといわれる竹中半兵衛と黒田官兵衛、その一人である竹中半兵衛重治を「公」と尊称し、36歳で陣中に没したお墓があり、今日なお供花がたえないという。

合戦後の街づくりや民百姓の暮らしの立て直しに励んだ秀吉の善政に起因すると思われるが・・・。

半兵衛の墓は、三木城址から東北へ約2q、平井山の麓にひっそりとある。平定した三木の地を見てほしいと秀吉が遺骸を移したと言われている。

現在、農繁期を避けて毎年7月13日に、市長を筆頭に関係者が集まり、丁重な法要を営まれているという。

平井山から地続きの山麓にある「栄運寺」にも墓があり、位牌も祀られている。



 別所長治 23歳

もろともに 消え果つるこそ 嬉しけれ  おくれ先立つ ならいなる世を

                       長治 正室 照子

命をも 惜しまざりけり あずさ弓  末の世までも 名を思う身は

 弟 友之 21歳

たのもしや 後の世までを つばさをば  ならぶる鳥の 契なりけり

                       友之  妻

後の世の 道も迷わじ おもひ子を つれていでぬる 行末の空

                       叔父 賀相の妻

君なくば 憂き身の命 何かせん のこりてかいの ある世なりとも

                       乳兄弟 三宅忠治


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