生年 640年(舒明12年)

没年 6581211日(斉明41111日) 享年19

父 孝徳天皇

母 左大臣・阿倍内麻呂の娘・小足媛。

日本書紀を見る限り、兄弟姉妹があった形跡が残されていない。

640年、軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので、皇子に「有間」と名付けたといわれる。

天智天皇(父方の従兄にあたる)の娘、明日香皇女・新田部皇女姉妹とは母方の従兄妹になる。後世には有馬皇子と表記される例が多い。

当時の日本の多くの豪族は、百済・高句麗との共闘派と、唐や新羅とも交流する全方位外交路線派とに分かれていた。

蘇我本家は、配下に多種の渡来人を収めており、あまりに多数の渡来人を抱えていたため、どちらかに決めかねていただけかもしれないが、少なくとも情報はかなり入手していたようだ。

乙巳の変の目的は、蘇我氏の進めていた倭国の中立と多方面外交と言った理想主義路線を打破し、積極的に高句麗・百済を救援することで、唐や新羅から高句麗・百済を守ろうとするものであった。

裏返せば、それほど唐の脅威は、高句麗・百済に迫っていたといえる。

乙巳の変により、唐・新羅連合軍に対して、高句麗・百済・日本の連合軍ができたことになり、日本は、孝徳天皇・中大兄皇子の二頭政治となった。

645712日(孝徳元年614日)に父の孝徳天皇が即位する。

孝徳天皇は同年の64611日(大化元年129日)に都を難波宮に移したが、それに反対する皇太子の中大兄皇子は653年(白雉4年)に都を倭京に戻すことを求めた。

孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄は勝手に倭京に移り、皇族たちや群臣たちのほとんど、孝徳天皇の皇后である間人皇女までも、中大兄に従って倭京に戻ってしまった。

失意の中、孝徳天皇は6541124日(白雉51010日)に崩御。

このため、655214日(斉明元年13日)、孝徳天皇の姉の宝皇女(皇極天皇)が再び飛鳥板葺宮で斉明天皇として重祚した。

父である孝徳天皇の死後、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に行っていた。
皇子は飛鳥に帰った後に自分の病気が完治したことを斉明天皇に伝え、その土地の素晴らしさを話して聞かせたため、斉明天皇は紀の湯に行幸した。

白良浜近くの公園に有間皇子の大きな碑が立っている。有間皇子は、白浜を舞台とした悲劇の皇子として日本書記に登場。そのおかげで白浜温泉は全国的に有名になった。その恩恵に報いるべく、顕彰碑を浜観光協会と白良浜保勝会が昭和62(1987)に建立した。高田好胤元薬師寺管長が揮毫

 65810月,斉明天皇は有間の皇子の薦めにより,中大兄皇子らとともに牟婁(むろ)の温湯(和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉)に船を使って行幸した。

5ヶ月前に中大兄皇子の子の建王(たけるのおう)が8歳で亡くなっているが,言葉が話せなかった皇子で斉明天皇はたいそうかわいがっていた。

この行幸は悲しみをいやす旅でもあった。旅の途中,この孫のことを歌に詠んだ。

 「水門(みなと)の 潮(うしお)のくだり 海くだり 後も暗(くれ)に 置きてか行かむ」

 (斉明天皇と建王は越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)奈良県高市郡高取町に合葬されている)

 天皇らが飛鳥を離れている11月のある日(3日か?)、都に残って留守役を勤めていた蘇我馬子の孫の蘇我赤兄(あかえ)は有間皇子の市経(いちふ−奈良県生駒町)の家を訪ねた。

赤兄は有間皇子に斉明天皇や中大兄皇子の3つの失政を指摘し、自分は皇子の味方であると告げた。

1 天皇が大きな倉庫に人々の財を集めている。

  2 大がかりな土木工事を行い、長い用水路造りを行っている。
     (「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」とよばれていた)

3 船で石を運んで丘を築き、人々を苦しめている。

これを聞いた有間皇子は赤兄が自分に好意を持っているといたく喜び「我が生涯で初めて兵を用いるべき時がきた」と言い、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。

この時、有間皇子は母の小足媛の実家の阿部氏の水軍を頼りにし、天皇たちを急襲するつもりだったという説もある。

しかしこれは罠であった。

2日後(115日か?)、今度は有間皇子が赤兄の家を訪ね、謀反の相談をしていると有間皇子の脇息(きょうそく−座ったとき体をもたせかけるためのひじかけ)が壊れてしまう。これは不吉なことと知り、謀反の相談を中止し、この話はなかったこととして互いに秘密を厳守することを誓って帰った。

 有間皇子が帰った後、赤兄は物部朴井連鮪(もののべのえのいのむらじしび)に命じて都の工事の人夫を率いて有間皇子の家を取り囲ませた。

有間皇子は就寝中であったが起こされ,守君大岩(もりのきみおおいわ)坂合部薬ら4人とともに捕らわれた。

このことは牟婁の温湯にいる天皇に早馬で知らせた。

蘇我赤兄が有間皇子に近づいたのは、中大兄皇子の意を受けたものと思われ、密告(報告?)したため、この謀反計画は露見した。

有間皇子は赤兄の裏切りによるものだと知ったが,赤兄は中大兄皇子を助ける重臣の一人であり,自分とともに謀反を起こすはずがないと気づくのが遅かった。

赤兄の家を訪ねたことは事実であり、罠である以上どう弁明しても逃れられないと悟った有間皇子は抵抗せず、天皇のいる牟婁の温湯へと送られていった。

658129日(斉明4119日)夕刻、中大兄皇子が捕らわれて護送されてきた有間皇子に「なぜ謀反を企てたのか」と問うと、有間皇子は「天と赤兄と知る。私は全く知らない」(天與赤兄知。吾全不知)とだけ答えた。

2日後の1111日,有間皇子は翌々日に藤白坂(和歌山県海南市藤白)で絞首刑に処せられた。享年19歳の若さであった。供の4人の内2人が斬り殺され,残りは流罪となった。

書紀には異説として次のような記事を伝える。()皇子は赤兄・大石・薬らと短籍を取って謀反を占った。()皇子は「宮室を焼き、牟婁津を兵で囲み、船軍で淡路国を遮って包囲すれば、謀反は容易く成功するだろう」と言い、「或る人」はこれを諌めて「計画はよくとも、徳がない。皇子はまだ19歳で成人にも至らない。成人に至って徳を得るべきだ」と言った。他日、皇子は或る判事と謀反を図ったが、案机の脚が故無くして折れた。皇子はそれでも謀をやめず、遂に誅戮された・・・と。

母の小足媛の没年はハッキリとはしませんが、有間皇子よりも先には亡くなって居たと思われ、祖父・倉梯麻呂、母・小足媛を亡くし身内の後ろ盾が無かった事が、有間皇子の悲劇の一因とも考えられる。

謀反の疑いで中大兄皇子の元へ護送の途中,磐代(現在の和歌山県日高郡みなべ町西岩代)で休息中に歌を詠んだといわれている2首の辞世歌が『万葉集』に収録されている。

磐白乃濱松之枝乎引結真幸有者亦還見武 -- 『万葉集』巻二 141

(海岸の松の枝に願い事を書いた紙を結び、運が良ければ帰りに見ることができよう)

家有者笥爾盛飯乎草枕旅爾之有者椎之葉爾盛 --『万葉集』巻二 142

(家にいたならば、茶碗に盛るご飯であるが、旅の途中であるので、椎の葉に盛る)

「家にあれば・・・」と同様,生か死かの不安な気持ちの中にもわずかな生への望みを表現していると読める。ただ異説があって,連行される時に詠んだのではなく,1年前の牟婁の温湯に出かけたときの歌ではないかともされている。

また、この2首については、折口信夫以来、皇子自身の作ではなく、後世の人物が皇子に仮託して詠んだものではないかとも考えられており、この説も有力である。

 

有間皇子の処刑ののち、701年(大宝元年)の紀伊国行幸時の作と思われる長意吉麻呂や山上憶良らの追悼歌が『万葉集』に残されている。

以降、歴史から忘れ去られた存在となるが、平安後期における万葉復古の兆しと共に、幾ばくか史料に散見されるようになり、磐代も歌枕となる。

また、有間皇子を偲んで藤白神社の境内には、有間皇子神社が創建された。

藤白坂には、「藤白の み坂を越ゆと 白樽の わが衣手は 濡れにけるかも」(『万葉集』巻91675)という、皇子を偲んだものと思しき作者不詳の歌碑も残っている。

赤兄の兄弟は、蘇我倉山田石川麻呂(乙巳の変で奏上を務めた・持統天皇の外祖父)、蘇我日向(石川麻呂を讒言、軍を率いて石川麻呂を追討)、蘇我連子(藤原不比等の義父)、蘇我果安(壬申の乱で大海人皇子側に付こうとする山部王を果安らが殺害)がいることは意外に知られていない。

蘇我本家と石川麻呂の分裂を図り本家を倒し、次に石川麻呂と兄弟の日向を分裂させ石川麻呂を倒し、日向を九州筑紫帥とした。

事件の首謀者が中大兄皇子で、日向はその功で栄転したとする見方は多い。

同じように、赤兄も筑紫帥として赴任、のちに大友皇子の左大臣に就いている。

 


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