生年 1325年?

没年 134824日(正平3/貞和415日)

改名 多聞丸(幼名)→正之(初名)→正行

戒名 文光寺霊山升龍仙海

墓所 宝筐院、他

官位 検非違使尉、左衛門少尉、従五位下、摂津守、河内守、

贈従三位、贈従二位

氏族 楠木氏

父母 父:楠木正成、母:久子(南江正忠の娘)

兄弟 正時、正儀

妻  富士義勝の娘

子  多聞丸、正綱、池田教正(諸説あり)

 

正成の長男として河内国に生まれた。幼名は多聞丸。幼少の時、河内往生院などで学び武芸を身に付けたといわれる。

 

「桜井の別れ」は、西国街道の桜井の駅(櫻井の驛)で楠木正成・正行父子が訣別する逸話。

その後、正成は湊川の戦いに赴いて戦死し、今生の別れとなった。

桜井の駅の別れ、桜井の訣別とも言う。

 

古典文学『太平記』の名場面のひとつで、「駅」(驛)とは宿駅のことで、摂津国島上郡桜井村(現在の大阪府三島郡島本町桜井)に置かれた大原駅と言われている。

 

13366月(建武三年五月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を怒濤の如く東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、その20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は上を下への大騒ぎとなった。

新田義貞を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、正成は、今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。

坊門清忠が「一戦も交えぬまま、帝が年に二度も京を捨てるとは、帝位を軽んじ、官軍の面目を失わせるもの」との大義名分論を振りかざして反対。

そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。

(その結果、正成は湊川の戦いで戦死し、後醍醐は比叡山遷幸を余儀なくされたため、後世、清忠は忠臣楠公を死地に追いやり、南朝を傾けた佞臣として筆誅が加えられることになった)


その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。

「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。

訣別に際して桜井村の坂口八幡宮に菊水の旗と上差しの矢一交が納められ、矢納神社の通称で呼ばれた。





1336年(延元元年/建武3年)、楠木正成が湊川の戦いで敗死してから、楠木氏はしばらくの間鳴りを潜めていた。

正行が成長すると、本拠地である河内国南部で次第に力を蓄え、摂津国南部の住吉・天王寺周辺までゲリラ的に出没し、足利方を脅かすようになった。

1347年(正平2/貞和3年)9月、楠木軍は藤井寺近辺で細川顕氏を破り、11月には住吉付近で山名時氏を破っている。

先に住吉浜にて足利方を打ち破った際に敗走して摂津国・渡部橋に溺れる敵兵を助け、手当をし衣服を与えて敵陣へ送り帰した。

この事に恩を感じ、この合戦で楠木勢として参戦した者が多かったとも伝えられている。

かねてより死を覚悟しており、後村上天皇よりの弁内侍賜嫁を辞退している。そのとき詠んだ歌が
「とても世に 永らうべくもあらう身の 仮のちぎりを いかで結ばん」
であった。

連敗続きの足利軍が本腰を入れて大軍を編成。

南朝の北畠親房は、楠木正行に迎撃を命じたが、楠木の本拠の南河内の山城で戦うならいざ知らず、その少数の軍勢(三千足らず)での野戦では、討死せよということかと正行やその一族は思ったであろう。

合戦に赴く際、辞世の句(後述)を吉野の如意輪寺の門扉に矢じりで彫ったことも有名である。


かへらじと かねて思えば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる
 

楠木正行公辞世之扉
現在の如意輪堂は慶安三年(1650)の再建


決戦を前に正行は弟・正時や和田賢秀ら一族を率いて吉野行宮に参内、後村上天皇より「朕汝を以て股肱とす。慎んで命を全うすべし」との仰せを頂いたという。

しかし、決死の覚悟は強く参内後に後醍醐天皇の御廟に参り、その時決死の覚悟の一族・郎党143名の名前を如意輪堂の壁板を過去帳に見立てその名を記してその奥に辞世を書き付け自らの遺髪を奉納。


尊氏は高師直を大将とする大軍6万(一説には8万)で、北上する楠木軍3千と四條畷に対峙した。

ゲリラ的に戦うならまだしも、20分の1以下の兵力で、平地において正面からの戦いでは勝ち目は殆どない。というより惨敗。

時に正行23才、正時21才であった。

 

家督は弟の正儀が継いでいる。

 

   


1890
年(明治23年)正行を主祭神とする四條畷神社が創建された。

さらに1897年(明治30年)には従二位が追贈された。

 

楠木正行と楠木一族の将士24柱を祀る  四条畷神社


楠木一族の菊水紋



後醍醐天皇が反幕府の動きを知った鎌倉幕府は、京都に大群を送り込んだ。

その為後醍醐天皇は、元弘元年(1331年)8月27日に大和国の笠置寺(かさぎじ)に逃れた。

この時天皇のお召しによって馳せ参じたのが楠木正成で、彼の本拠の河内国に戻り、天皇のために挙兵することを約束した。

その際に、天皇は皇室の御紋章である菊紋を与えた。

但し、正成以後楠木家は、天皇とおなじ菊の紋を持つことは畏れ多いと、菊の上半分に水の流れの図を添えて菊水紋とした。

楠木家は、水神を祀る古社の【建水分神社:たけみくまりじんじゃ】の有力な氏子であった。

その為、菊の半分と氏神にちなむ流水を合わせた家紋としたといわれている。

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−桜井の訣別−作詞:落合直文、作曲:奥山朝恭

1.青葉茂れる桜井の  里のわたりの夕まぐれ

  木(こ)の下陰に駒とめて  世の行く末をつくづくと

  忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に  散るは涙かはた露か

2.正成涙を打ち払い 我が子正行(まさつら)呼び寄せて

  父は兵庫に赴かん  彼方(かなた)の浦にて討ち死せん

  汝(いまし)はここまで来つれども  とくとく帰れ故郷へ

3.父上いかにのたもうも  見捨てまつりてわれ一人

  いかで帰らん帰られん  この正行は年こそは

  未だ若けれ諸ともに  御供(おんとも)仕えん死出の旅

4.汝をここより帰さんは  我が私の為ならず

  おのれ討死為さんには  世は尊氏の儘(まま)ならん

  早く生い立ち大君(おおきみ)に  仕えまつれよ国の為

5.この一刀(ひとふり)は往(い)にし年  君の賜いしものなるぞ

  この世の別れの形見にと  汝(いまし)にこれを贈りてん

  行けよ正行故郷へ  老いたる母の待ちまさん

6.共に見送り見返りて  別れを惜しむ折からに

  またも降りくる五月雨の  空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)

  誰か哀れと聞かざらん  あわれ血に泣くその声を

−敵軍襲来−

7.遠く沖べを見渡せば  浮かべる舟のその数は

  幾千万とも白波の  此方(こなた)をさして寄せて来ぬ

  陸(くが)はいかにと眺むれば  味方は早くも破られて

8.須磨と明石の浦づたい  敵の旗のみ打ちなびく

  吹く松風か白波か  よせくる波か松風か

  響き響きて聞ゆなり  つづみの音に鬨(とき)の声

−湊川の奮戦−

9.いかに正季(まさすえ)われわれの  命捨つべき時は来ぬ

  死す時死なでながらえば  死するに勝る恥あらん

  太刀の折れなんそれまでは 敵のことごと一方(かたえ)より

10.斬りてすてなん屠(ほう)りてん  進めすすめと言い言いて

  駆け入るさまの勇ましや  右より敵の寄せくるは

  左の方(かた)へと薙(な)ぎ払い  左の方より寄せくるは

11.右の方へと薙ぎ払う  前よりよするその敵も

  後ろよりするその敵も  見ては遁(のが)さじ遁さじと

  奮いたたかう右ひだり  とびくる矢数は雨あられ

12.君の御為(みため)と昨日今日  数多の敵に当たりしが

  時いたらぬをいかにせん  心ばかりははやれども

  刃(やいば)は折れぬ矢はつきぬ  馬もたおれぬ兵士(つわもの)も

13.かしこの家にたどりゆき  共に腹をば切りなんと

  刀を杖に立ちあがる  身には数多の痛矢串(いたやぐし)

  戸をおしあけて内に入り  共に鎧の紐とけば

14.緋おどしならぬくれないの  血潮したたる小手の上

  心残りはあらずやと  兄のことばに弟は

  これみなかねての覚悟なり  何か嘆かん今さらに

15.さはいえ悔し願わくは 七度(ななたび)この世に生まれ来て

  憎き敵をば滅ぼさん  さなりさなりとうなづきて

  水泡(みなわ)ときえし兄弟(はらから)の  心も清き湊川

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