北条夫人(桂林院)

生年 1564年(永禄7年)

没年 158243日(天正10311日))

相模国北条氏康の6女とされているが、氏康の子女で生年が判明しているのは北条氏規と、この北条夫人の2名だけであるので長幼の順は定かではない。

甲斐国主武田勝頼の継室。名は不明。



武田氏と北条氏は駿河の今川氏を含めて三国同盟を形成しそれぞれ婚姻関係を持っていたが、武田信玄の駿河侵攻を契機に甲相同盟が解消され、婚姻関係も解消されていた。

信玄晩期には甲相同盟の回復が志向され、勝頼期には天正3年(1575年)の長篠の戦いによる敗退で領国の動揺を招いていたため、天正5年(1577年)122日に北条夫人は勝頼正室として嫁いだ。



躑躅ヶ崎館跡に建つ武田神社


天正6年(1578年)に越後国で上杉謙信が死去すると後継者を巡る御館の乱が発生し、勝頼も当初は、夫人の実兄である北条氏政の要請もあり、同じく夫人の実兄にあたる上杉景虎を支持していたが、上杉景勝方が乱を制すると勝頼は外交方針を転換して景勝と甲越同盟を結び、乱に敗れた景虎が自害に追いやられたことで甲相同盟の破綻を招いた。

甲越同盟は軍事同盟として有効に機能しなかったため1582年(天正10年)21日には織田・徳川連合軍の甲斐侵攻を受け、河内領主の穴山信君ら一部家臣団の離反も招いた。

同年219日に夫人は勝頼のために武田家の安泰を願い、武田八幡宮に願文を奉納している。

同年3月には戦況は悪化し、勝頼は相模国と接する郡内領主小山田信茂の居城の岩殿城を目指して落ち延びたが、信茂が離反すると笹子峠において織田軍に襲撃され、一行は天目山に逃れた。

311日に日川渓谷の天目山の近くの田野村で、滝川一益の軍に発見され、勝頼らと共に自害した。

 

天目山(てんもくざん)は、山梨県甲州市(旧大和村)木賊村(とくさむら)及び田野村にある峠。

元は山中にあった木賊村より「木賊山」と称されてきた。南北朝時代の貞和4/正平3年(1348年)、臨済宗の禅僧・業海本浄が木賊山を訪れた際にこの山がかつて元に留学した際に見た禅宗の名刹・天目山を髣髴させるとしてこの地に天目山護国禅寺を創建した。

この寺が後の棲雲寺である。このため、いつしか元の木賊山よりも寺の山号である「天目山」の名称で知られるようになったという。

この地は甲斐武田氏滅亡の地と位置付けられている。だが、甲斐武田氏がこの山で2度滅亡したという事実は余り知られていない。

応永24年(1417年)、室町幕府に追われた武田氏第13代当主武田信満が山中の木賊村で自害して甲斐武田氏は一時断絶する。そして後に再興された甲斐武田氏も165年後の天正10年(1582年)、織田政権に追われた武田氏第20代当主武田勝頼が山麓の田野村で自害して甲斐武田氏は滅亡したのである。

ただし、前者の滅亡を伝えた『鎌倉大草紙』は「木賊山」、後者の滅亡を伝えた『甲斐国志』や『信長公記』は「天目山」という名称で伝えているため、名称の由来を知る者でなければ、二つの山が実は同一であるという事実に気付く者はほとんどいない。なお、信満が死んだ木賊の南側に隣接した麓に勝頼が死んだ田野が存在している。

 

落ち延びた武田勝頼一行が勝沼にある大善寺に立寄り、同寺の薬師堂に勝頼、勝頼夫人、武田信勝を迎えて理慶尼と4名で寝所を供にした。勝頼はここで小山田信茂の裏切りを知り、天目山に向かっている。その後、武田家のことを物語調に『理慶尼記』に書いている。
『理慶尼記』は別名武田勝頼滅亡記と呼ばれ、大善寺に写本が残っているという。

新田次郎の小説には、

『佐用姫(北条夫人)は死の用意をした。・・・自らの黒髪を切って落とし、それを四つに分けて、小田原から付き添いとして付いてきた四名の者に一束づつ渡して言った。「私たちの死に様をよくよく見届けてから、この場を逃れよ。そして四人のうち誰かは必ずこの黒髪を小田原の兄に届け、一言「お恨み申すとだけ伝えられよ」。

命に代えましても、と夫人の最後の願いを受けた家臣たち。

この四人のうち、敵の重囲を抜け小田原にたどり着くことができた者の報告により、夫人の遺髪と辞世の句、そして武田最後の様子が北条にも伝わりました。』

小田原の兄・北条氏政に黒髪を届けさせた話は小田原側の記録にも残っており、実際にあったことのようです。

 

快川紹喜和尚の北条夫人評では、

「家語に曰く、善人と居るは芝蘭の室に入るがごとし、久しくしてその香を聞かざるも、自然これと化す。善人あに異人ならんや、淑女君是なり」

 

北条夫人 享年19



           

《訳》

まるで黒髪が乱れるかのように果てしなく世は乱れ、
貴方を想う私の命も露のしずくのように儚く消えようとしています

 

武田勝頼 享年37

おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ  晴れて行くへの 西の山のは

 

武田信勝(勝頼嫡子) 享年16

 

『理慶尼(りけいに、享禄3年(1530年)- 慶長16817日(1611923日))は、戦国時代の女性。武田信虎の弟勝沼信友の娘で、武田晴信(武田信玄)の従妹に当たる。俗名は松の葉、または松葉。勝沼信元、上野原加藤氏の名跡を継いだ加藤信厚の妹』

 

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