「大阪天神まつり」

生まれた日、左遷配流される日、亡くなった日は全て25日。故に25日を縁日としたといわれています。

 「天神まつり」は、大阪の夏の顔です。

明治五年、太陰暦から太陽暦へ変更されたとき、水無月1日に行われていた神鉾流し神事は、新暦7月19日にされ、更に明治7年には、7月25日に再度変更され、現在に至っています。

長い歴史の中でいかにも自然に受け継がれてきたような錯覚を覚えるほど、この豪快さは、誰もが抱く共感覚に近いものがあります。

 まつりの最大の特徴は、天満宮の前を流れる大川で繰り広げられる船渡御、つまり水上パレードでしょう。

 天神まつりの起源は、天満宮に伝わる話では、天暦五年水無月一日、社頭の浜から大川(淀川)に神鉾を流し、流れついた浜に斎場を設けて疫病のはやる夏を無事過ごせるように「禊(みそぎ)」を行い、25日に神事を執行した。これが鉾流し神事の始まりで、船渡御の起源となっているとのこと。



24日朝の鉾流し神事から天神祭が始まる


 この船渡御の起源については、「八十嶋まつり」という古い祭祀の名残ではないかという説もあります。

八十嶋まつりは、天皇の即位儀礼の大嘗祭のあと、難波の海浜で、新帝が島々に平安を祈る儀式で、第55代文徳天皇即位の年(850)から、約300年続いたと云われています。

 また、聖徳太子が裴世清を迎える為、飾り船30艘で迎えたという故事もあり、貴人や貴いものを「飾り船」船団で迎えるという風習が天神まつりに習合したのかもしれません。


 現在のような祭りのかたちになったのは、豊臣秀吉の時代といわれ、徳川時代には、京都の祇園まつり・江戸神田祭りとともに、日本三大祭のひとつとして、数えられるほど大規模になっていました。

 ちなみに、庶民が支持し協力する日本三大祭の祭神は、京都祇園は牛頭天王即ち素戔鳴尊、江戸神田明神は平将門、大坂天満宮は菅原道真。すべて政治的敗者を神として祀られています。

 大坂天満宮は、大坂夏の陣で戦火にみまわれ、一時は吹田の方へ遷宮しましたが、寛永18年(1641)に元の地に還御。
以後、江戸期に再三再四火災に遭っていますが、すぐに復興できたのは、富豪や氏子らの協力に負うところが多くありました。

御鳳輦(ごほうれん)=道真公の乗り物。御神体道真公を載せて、陸渡御・船渡御に臨む。


特に、天下の台所として、全国の物資の集散地という役割を担っており、近世日本の経済的実権を握る大阪の三大市場、つまり天満の青物市場、堂島の米市場、雑魚場の魚市場を氏地に抱え込んでいたのは、なんといっても強みであり、元禄以後、ますます隆盛を極めたといいます。

 さらに、天満地域一帯は全国の諸藩の蔵屋敷が立ち並び、種々の支援がありました。

これら三大市場の支援は経済的な面はいうにおよばず、祭りの担い手としても、実に頼り甲斐のある存在であったと思われます。

 また、「砂持」があり、袋に詰めた土木工事の砂を、勤労奉仕で宮へ運んだりするときには祭りさながらの揃いの衣装・鳴り物入りで努めることもあったといいます。この民衆のエネルギーを結集した工事は、信仰心だけではない、さまざまな大坂町人の複合した熱い思い、夢と希望と創造が煮えたぎっていたに違いありません。このような大坂の民衆の心意気を象徴するものが「天神まつり」でした。

 大阪天神まつりは、毎年のように変わっています。「昔からこうであった」という従来の価値観でははかれないような途方もない広がりと多様性があります。天神まつりを精一杯盛り上げ、それによって大阪全体の活性化と、大阪の伝統文化アイデンティティを見つめ直そうという情熱をもった人々が、次々と新しい試みを実践しています。


  
平成25年 公式パンフレットの表紙

 当然、厳粛な神事の部分は歴史的な伝統やしきたりを厳密に守っていく必要がありますが、祭事の部分はさまざまに浮動し、変化し続けていることが、天神まつりの逞しさといえるでしょう。そうしたものが一定期間継続していくと、それがまたひとつの伝統をかたちづくっていく可能性も秘めています。

 伝統を維持し、動かぬ柱としての神事と、常に変化し活気を生む祭事。その両輪が相挨ってこそ、天神まつりの未来があるし、現実にダイナミックに躍動しています。

 まつりを演じる者と観る者、百余万人が一体となった世界に、大阪の誇るまつりとして共に楽しみ、共に自由で活力ある未来のまつりを創造していく喜びを分かち合いたいものと思います。

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