天神信仰

    なぜ道真の怨霊は北野に鎮座し 天神さまと称されるのか。

 

天神様イコール雷神というイメージがあります。

元々、雷の総本社といえば、京都の賀茂神社です。

賀茂祭の起源は、欽明天皇の時代に天変地異が続いた為、占いにより賀茂の神を祀ると五穀も稔り、世の中は平隠になったと伝わっています。

いわば神の霊を鎮めたということ。おそらくこうした故事から、怨霊と雷神は固く結びついてきたと思われます。

 両者の深い関わりは、早良親王や井上内親王などの怨霊を祀る各地の御霊神社などに必ずといっていいほど雷神が祀られていることでもわかります。

 農業神とされている雷神は怨霊神の象徴的存在でもあったのです。

 北野の地は、古くは秦氏系の由縁の地といわれ、少彦名は秦氏の氏神といわれています。

少彦名は「天神」とも呼ばれ、彼を祭る神社は「天神社」と称されるところが多いようです。

 記録によると、ほとんど後から道真が合祀されていますが、これは呼称上の結びつきからと、学問の神、天神様信仰の弘がりの結果であろうと思われます。

 いわば、本来の天神たる北野の社は、軒先貸して母屋を取られたようなものでしょうか。

 延喜四年、しきりに雷鳴が続き落雷の被害続出。そこで北野にあった天神の社に使者を送り、雷神を祀り祈願させました。

承和3年(836)には遣唐使の航海の安全を祈る儀式が行われています。(西宮記)

 古来、雷は風雨を伴うので農耕民にとってはきわめて重要な神であり、雨は農耕にとって死活を握っていましたから、この雷神に祈願し、慈雨を得ようとする信仰は、ずいぶん昔から盛んであったと思われます。

 今でも火雷神としての天神を祀り、農耕神として信仰され、道真を祭神としない「天神社」が全国に少なからず存在しています。

道真以前に、北野の天神様と呼ばれていたのは少彦名であり、道真の鎮座とともに道真に仮託されたものかもしれません。

 御霊信仰のシンボル雷神や少彦名にとって代ったのは、打ち続く異変に極度の不安を感じていた当時の民衆がいかに道真の怨霊に期待したかを物語ります。

彼が生きた時代は、御霊信仰が人間の「生」と「生活」を大きく支配していた時代であり、彼は、そうした時代の申し子として、その悲劇的な死と共に、瞬く間に怨霊神の旗頭に祭り上げられたと思われます。

天慶4(941)頃、吉野金峰山修行僧道賢(日蔵)により「道賢上人冥土記」(日蔵夢記)が認められ、道真の霊を真言密教思想を媒介として、中世的神格に転化させる神学的作業が行われ、「天神縁起」の原型が形成されました。


『北野天神縁起』(承久本)巻六。宮中清涼殿に雷を落とす雷神と逃げまどう公家たち。延長8年(930年)616日の清涼殿における落雷の様子を描いた巻六の場面。中央に黒雲と雷神を配し、その左右に清涼殿の内部や庭において倒れ逃げ惑う公家の様子を描いた特徴的な構図である。

太政威徳天≠大威徳明王(調伏法の神)は眷属十六万八千の悪神を従え、清涼殿に落雷した雷神は第三の使者「火雷天気毒王」であり、道真は火雷神そのものではなく、より超越した力を持った神格として位置付けられています。

 朱雀天皇の時、天慶5(942)、京都の右京七条二坊に住む多冶比文子に道真の託宣が下り、4年後の村上天皇の時、近江国比良社の神良種の子太郎丸にやはり神託があったといいます。

 そこで、その翌年の天暦元年(9476月、良種と当時北野の右近馬場の一角に在った朝日寺の僧最珍(鎮)らが協力して道真の怨霊鎮魂の宮「天満自在天神社」が建てられたそうで、それが現在の北野天満宮の創始であるといわれています。

 また、大阪天満宮社伝によれば、2年後の天暦3年(949)に村上天皇の勅願により、大将軍社の境内に宮が「造営」されたのが今の「大阪天満宮」の始まりとなっています。

 大阪天満宮の創始には、いくつかの通説・異説があり、その通説のひとつに、白雉元年(650)に長柄豊碕宮の西北を鎮護するために大将軍社が鎮座され、毎年6月と12月に鬼気(もののけ)が侵入するのを防ぐ道饗祭が斎行されていました。道真没後半世紀近くたったある夜、この大将軍社の前に、突如7本の松が生え、夜毎に梢が金色に光り輝き、これを、道真に縁の奇瑞として、同地に宮を造営したというもの。以後、大将軍社は天満宮の境内社となり、道饗祭を伝えています。

  
大阪天満宮境内に残る大将軍社

また、別の一書によれば、この地は源氏の一統である渡辺氏の所領であり、渡辺氏が造営し、勅願ということにしてもらったというもの。度重なる戦禍や火災等により、膨大な文献資料等が焼失したり散逸して、よく判らなくなっていることが残念です。

 道真が亡くなって、一世紀近く経過した、一条天皇の永延元年(987)に初めて北野祭が行われ、このとき「天満天神」が勅号されたと伝わっています。(異説もあります)

正暦4年(9936月に左大臣正一位、更に10月に太政大臣の位階が追贈されました。

 時は移り時代を経て、人々の意識の変化とともに、怨霊神・道真の顔は遠影となり、学者・道真、「文道の太祖、風月の本主」としての彼の素顔がクローズアップされてきます。そして国風文化の発達につれてますます篤い信仰を寄せられるようになりました。

江戸時代になると、寺子屋教育の普及とともに道真信仰は全国に広がり、受験戦争の時代へと受け継がれてきたのです。御霊信仰の時代のシンボルから、学問の時代のシンボルへと・…。

当然、怨霊鎮魂の宮から燦然と輝く学問の宮へ天満宮も大きくその相貌を変えました。

この天神信仰が形成される過程において実に幅広く仮託され、怨霊信仰はもちろんのこと、学問の神様として期待し、農業の豊作を祈る気持ちから「雷神」としての神格を期待し(雷神信仰)、当時の最も恐ろしい疫病であった疱瘡(天然痘)の退散を祈願し(疫神信仰)、疫病流行の周期性を星の運行の周期性と結びつけ、大将軍の疫病信仰と星辰信仰が混同吸収されました。

また、照葉樹林から針葉樹林に変化しつつあったことから「松」の生命力に対する松樹信仰が生まれ、更に無実の罪を晴らしてくれる(雪冤)を祈願することも、天神信仰に仮託・吸収されていったと思われます。

 千余年の長い間、おびただしい祈りをその身にうけてきた菅原道真。

配所で絶望の淵から神を伏し仰いだ彼は、このようなわが身の後世の姿は、夢想だにしなかったであろうと思います。

index ▲michizane ージ先頭に戻る
copyright©shiroikaze all rights reserved.
index ▲michizane 
inserted by FC2 system