菅原氏の出自は、土木技術・地質学・方位から天文学迄必要な陵墓造営を主とし、その職掌の一部として土器や埴輪を造り仕えたという土師氏。

始祖を天穂日命とし、当麻蹶速を倒して「相撲の元祖」と仰がれる野見宿禰・・・土師連大保度―首―八島―身―根麻呂―甥―宇庭―古人―清公―是善―道真と続くとしています。

ちなみに、首の子、八島の兄弟の菟から土徳―富杼と続き、富杼の娘の真妹が和乙継に嫁ぎ、生まれたのが高野新笠。

その新笠と光仁天皇との間に生まれたのが山部皇子即ち桓武天皇です。

他に平安期の文人政治家や鎌倉幕府に仕えた広元で知られる大江(枝)氏や、古市古墳群近くに居住した秋篠氏(藤井寺市の道明寺も古くは土師寺とも秋篠寺とも呼ばれていました。ちなみに和菓子の素材に道明寺粉がありますが、ここで作られていたことからついた名前だそうです)も同族といわれています。
 道明寺天満宮

 土師宿禰古人のとき、一族15人が姓を改める請願を奉り、桓武天皇から大和国添下郡菅原(現在の奈良市菅原周辺=垂仁天皇陵の付近)の地名に基づいて菅原姓を賜りました。

古人は遠江介で終わった人ですが、儒学に通じ桓武天皇に侍読として仕えています。

その子清公(770842)は、文才に優れ文章博士となり、また最澄・空海・橘逸勢らとともに入唐した経験もあって勅撰漢詩集「凌雲集」の編纂に携わったほか、嶬峨天皇のとき、朝廷の唐風文化政策にも関与し、従三位まで昇進しました。

清公の子是善(812880)も文章博士、大学頭を歴任。

文徳天皇に「文選」や「漢書」の進講を行った当時随一の学者で、六一歳で参議に補され、公卿の列に加えられています。

是善の子が道真(845903)です。

弘法大師空海が亡くなって丁度10年目の承和12年(845)是善の3男(母は伴氏)として生まれ、父祖同様に、道真も文章生から文章得業生となって官途につき、文章博士になっています。地方官も讃岐守として経験。

 菅原氏は儒生の家で、朝廷の儀式を司る式部省に出仕したり、受領として地方に赴くこともありましたが、要するに中流貴族。政治の中枢に関わる可能性のまず無いといっていい家柄でした。

官位も晩年になって公卿の末席である従三位・参議に達するのが精一杯であり、右大臣に昇った道真が権門の藤原氏から敵視されたり、同じ中流貴族の羨望と反感を買ったのも、当時としては当然の成り行きだったかも知れません。

 道真は幼少から秀才の誉れが高く、11歳の時に詠んだという詩「月夜に梅花を見る」が菅家文草に載っています。ちなみに天神様といえば梅。道真が最初に詠んだ詩が「梅花」だったのは印象的です。

梅花はその後の道真にとって、まさしく心の花だったといえるでしょう。

 貞観四年(862)18歳で文章生の試験に合格。

20代の中頃から新進官僚として頭角を現し、26歳で文章得業生となり、35歳で学者の憧れである文章博士に任命されています。

元慶四年(880)父是善が亡くなり、祖父清公が開設した「竜門」とも称された私塾を引き継いで主宰。この塾は、方一丈の書斎につながる廊下を教室として講義したところから「菅家廊下」と呼ばれ、また、多くの秀才が育っており、35歳にして文人社会の中心的人物・官僚アカデミズムのボスとなりました。

仁和2年(886)には国司として讃岐に赴任。在任中、旱魃に見舞われた讃岐地方で道真が坂出市(香川県)の城山神社に至誠の願文を捧げたことが伝わっています。

また、「阿衡事件」の折には、藤原基経に書を送って諌めており、この手紙は宇多天皇が道真に注目し、重用するきっかけとなったといわれています。

寛平三年(891)関白藤原基経が五六歳で死去。宇多天皇の親政が開始されると同時に、道真は機密文書をも扱う蔵人頭として抜擢され、栄達の道を歩み始めました。

宇多天皇が基経の子、時平に対抗させるべく道真を重用したからといわれています。

寛平五年参議になり、寛平六年(894)に遣唐使廃止を奏上。

この当時、道真自身が書き残した書によれば、「菅家廊下」出身の文章生・文章得業生は100人を超え、結果的に官界の主要ポストを占める予備軍に成長していました。

道真自身が意図したかどうかは別にして、道真派閥は政界・官界の一大勢力となっていたようです。

寛平9年に権大納言となり右大将を兼任し、寛平11年には、右大臣に迄昇り詰めました。

延喜元年(901)1月25日、政敵藤原時平の讒言により、突如大宰権帥に左遷配流されました。


筑紫へ船出の図。難波に到着した道真は、別れを惜しみながら乗船。荒れ狂う荒波。
見送る僧俗男女は泣き叫び悲嘆に暮れている。


4人の男子も、長子大学頭高視は土佐介に、式部丞景行は駿河権介に、右衛門尉兼茂は飛騨権掾に、文章業得生淳茂は播磨の国に配流。妻と女子は都に残されましたが、幼い二人の子は配所に連れていき、一家は離散しました。

配流の翌年、配所に連れて行った幼い娘を亡くし、道真の失意の生活は「菅家後集」に生々しく映し出されています。



『北野天神縁起』(承久本)巻四。大宰府の配所にて、かつて帝から賜った衣を取り出し涙ぐむ道真。承久本は、通常は横置きにする料紙を縦置きにして繋いで、縦50センチを越える広大な画面を作り出している。


「大宰権帥」という役職は、一見大宰府のナンバー2のように思われていますが、実態は流刑同様で、幽閉同様出歩くことは許されず、

「床は朽ち、縁は落ち、屋根は雨漏りがひどい。」

「生来の胃弱に悩み、栄養失調による脚気、悪質な皮膚病に罹り、苦しむ毎日だった。」

「家を離れて 三,四月 涙を落とす百千行 万事みな夢の如し」

という有様と伝わっています。

道真は、延喜3年(903)2月25日大宰府の配所で五九歳の生涯を閉じ、遺骸は大宰府の近くに埋葬されました。



2年後、近臣の味酒安行によって祠廟が建立されたのが、今日の大宰府天満宮の始まりといわれています。

太宰府天満宮本殿と、右の飛梅。太宰府へ旅立後、愛した京都の自宅の庭先の梅が菅原道真公を慕って一夜にして飛んできたという伝説の飛梅品種は色玉垣。野梅性。八重中輪で極早咲き。

「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

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