「醍醐天皇御記」に藤原清貫(宇多親政のとき、道真と共に参議に抜擢された藤原保則と在原業平の娘・美子の子、在原業平の孫にあたる)が、同年7月宇佐八幡奉幣使として筑前に赴き、道真のところに立ち寄ったとき、道真の言葉として「自ら謀るところは無かったけれども、善朝臣の誘引を逃れる事が出来なかった。また、法皇からも承和の故事を承って……」とあります。

つまり清貫は、道真が積極的でないにしろ、連座していた事を認めましたと報告しているのです。

醍醐天皇にしろ時平にしろ、この報告は、自らの「うしろめたさ」を大いに薄めたであろうと思われます。

しかし、この清貫は、清涼殿落雷の折、胸を裂かれて即死しています。

 善朝臣は、嵯峨天皇の皇子源明の孫で、五位蔵人として法皇の側近であり、善は道真と同時に出雲権守に左遷されています。

宇多天皇が、この善に「正月十五日の七草粥、三月三日の桃花餅、五月五日の五色粽、七月七日の索麺、十月初め亥餅等は俗間に行われていたもの、これを宮廷の歳時とする」と指示しています。

天皇家における正月の「四方拝」を始め、前述の民間行事、また、9月13日夜の賀茂臨時祭なども宇多天皇から始まったとされており、道真らの意見も取り入れたと思われます。

時平や光が亡くなって、醍醐天皇の施政方針は頓挫をきたしました。

忠平は、次兄仲平を差し置き、参議から一気に右大臣に抜擢されましたが、これは宇多法皇の圧力であり、以後の醍醐天皇の治政は精彩を欠いています。

醍醐天皇の死により、忠平は待望の摂政に就任しました(天皇幼少の折には摂政、成人すれば関白)。

天台座主の増命と諜しあわせて、道真の怨霊が雷となって内裏に乱入したという噂を流し、吹聴させて時平の長男大納言保忠・三男権中納言敦忠をノイローゼに陷いれ早世させました。

これで、摂関家の正統は時平流から忠平流に帰し、忠平の長男実頼の正妻に時平の娘能子を迎え、摂関家の財産を合法的に自家の所有に移しました。

 第61代朱雀天皇は、延長3年(925)3歳で立太子。延長8年(930)8歳で即位。3歳までは御座所の蔀格子も上げず、昼夜の別なく灯を掲げ、几帳の奥深く守り育てたといいます。

「北野にをぢまうさせ給て」と道真の怨霊に怯えての過保護処置が大鏡に記され、醍醐天皇御記の延長3年10月21日の条に「太子幼稚、母后と同居」という特別処置が講じられていることが記されています。

 更に、朱雀天皇の時代は、平将門、藤原純友の乱を始め、大地震・富士山噴火・豪雨につぐ洪水等々の天災も頻発でした。

 この御霊信仰の過熱化と藤原氏の政権独占を併行過程として考えると、どうしても藤原氏の影を感じざるを得ません。

 天皇まで呪い殺した程の怨霊は、そのまま黙っているとは思われず、何とか処理をつけなければなりません。ここに北野社(後の天満宮)が登場してきました。

 元々、この社の地は、農耕の豊かな実りを授けるものとして、聖牛を供えてまつり、天神・雷公を祀って、降雨を適当にコントロールしてくれるように願ったところといわれています。聖牛、天神、雷神の観念は、当時すでに変わりつつあり、慈雨を降らす恵沢の面よりも、火災を起こし、人を殺す災いが強く意識されるようになっていました。京都の都市化が進んで、農業が次第に行われなくなっていたことも関係していると思われます。

この北野社は「祭神として道真が鎮座」したのは亡くなって約半世紀近い天暦元年(947)のこと。


平安時代の建築様式を今に伝える国宝。拝殿と本殿を石の間という低い土間でつないだ社殿で権現造といい北野天満宮がその始まりとされている。今の社殿は慶長121607年豊臣秀頼の造営。

藤原忠平は、北野社の運営には援助を惜しみませんでした。怨霊を鎮めるためには避けて通ることは許されません。

勝ち残ったものが、敗者の怨霊を慰めるのは原則ですが、この原則をきちっと守ることにより、藤原氏の勝利がいつまでも保証されるという逆の効果もあることを見逃してはなりません。

 中世において、火雷天神としての道真の御霊は、天皇を中心とする王朝貴族には落雷の恐怖を与えつづけるのに対して、地方村落民にとっては、落雷の恐怖を伴いながらも、基本的には慈雨をもたらす招福神として自分たちを積極的に助けてくれる神として敬い、

前代の律令体制を復活しようとした「延喜帝王」(醍醐天皇)は、道真の御霊の忿りに遭って、地獄の業火のなかで苦しんでいるという縁起が唱導されていたと思われます。

 忠平とその一族は、道真の怨霊に対しては免疫であり、時平の一統を根絶するため、怨霊を徹底的に利用したようですが、以後、忠平流のみが摂政関白を独占し、道長の「此世をば我世とぞ思う望月の欠けたる事のなしと思えば」時代を経て、忠通の子孫である五摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条)が交代で勤め、明治時代の制度廃止まで続いています。

ここで、藤原氏にとって困ることは、道真の怨霊は、必ず雷となって現れることで、夏なれば、当然のように雷は暴れ、ところかまわず落ちる。

その度に藤原氏を呪っているのだということではたまったものではなく、怨霊として利用し尽くした道真の霊を、雷神から切り離し、別のものにスリかえなくてはなりません。

道真は、やはり優れた学者であり、詩514篇、散文161篇という膨大な量の個人の全集を残し、平安中・後期頃から学問を志す者の敬仰の対象となっていました。

 学問、文筆が貴族や一部の官僚に独占されていた段階から、庶民に対応して、道真が文章博士であったことを大いに強調する策を推し進めた藤原氏はもちろんのこと、神社側としても災禍の因であるより、学問の上達を助ける福神になった方が良いに決まっています。

右馬場の傍に造られていたささやかな北野社は、忠平の力によって見る間に天下の大社に発展していきました。

学問や芸術に人々の関心が高まり始めた頃から、学問の神としての性格が強まり、各地で信仰されるようになりました。特に江戸期に、読み書きそろばんを教える為の寺子屋という民衆の初等教育が広まるにつれ、寺子屋で天神さまの掛け軸をかけて祀る習慣が全国的に広がり、現代では、学業上達、受験の神様として受け継がれ、今では一万一千余の天神社があるといわれています。

要するに、今日の一万一千余の天神さまは、市民・社会教育と深い関わりがあるのです。

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