仁和3年887)光孝天皇が病気になると、既に臣下に下っていた源定省が親王に戻り、全く慣例を無視して皇太子となり、第59代宇多天皇となりました。

母は桓武天皇の仲野親王の娘であり、藤原氏の外戚の関係はありません。

源定省の正妻、橘義子(父は橘広相)は、源定省の養母、尚侍藤原淑子の養女。つまり淑子の養子が皇位に就き、養女が女御になったのです。

 尚侍藤原淑子の凄まじい政治力の結果、強権をもって知られる基経も、娘の温子を後宮に入れるという条件で、妹の淑子の巧妙な提案を受け入れざるを得ませんでした。

 宇多天皇の登位はそれこそ非常な無理があり、その政治的基盤は脆弱でした。

即位後、まもなく橘広相の草した詔書を基経に賜りました。

「万機巨細、百官総己、皆関白太政大臣、然後奏後」という、いわゆる関白の詔です。

 基経は早速、上表を奉りこれを辞したいといった。当時の慣例として、上表は形式的なものといえますが、橘広相が筆している事が気に入らず、それとは知らずに、再び広相に筆せしめ、勅答を出しました。

 その文章の中に、「宣以阿衡之任、為卿之任」とあったことに、基経はこだわりました。学者藤原佐世のいう「阿衡はただ位にして政治にあずかるべき職掌なし」ということに従ったもので、基経はその後出仕しなくなりました。 

 これは、外戚の無い天皇に対しての藤原氏の威力を示そうとしたものであり、ひとつは広相をライバル視する学者藤原佐世の敵視であり、基経にとっては広相が宇多天皇の外戚(橘義子が女御)である脅威を除き、橘氏の台頭を防ぐ意図もありました。

「阿衡の論議」について、当時道真は讃岐守でしたが、父是善の門人であり、讃岐守転出まで同じ文章博士を務めていた広相の「阿衡」引用を学者という立場から弁護するとともに、彼を罰することは藤原家にとっても益なしと事理を尽くして論じたもので、基経に書を送りこれを諌めていますが、基経は当然聞きいれませんでした。

結局、基経の娘温子が入内して女御となるに至って落着。天皇の屈辱的な敗北に終わり、基経は史上初めての関白に就いています。

 寛平3年(891)関白基経は56歳で亡くなり、その三子の時平・仲平・忠平は年若く、時平は弱冠21歳でした。

宇多天皇の治政で成果を上げたものは、地方制度の改革、官司の廃合、権門勢家の地方政治への悪弊等々。

特に、地方制度の改革は、藤原氏にとって利害相反するものであったといえます。

 宇多天皇は31歳で譲位し、第60代醍醐天皇が即位。宇多天皇は上皇となり、後に法皇となり、嵯峨天皇の皇子源融の旧邸、河原院(今の枳殻邸)を仙洞御所としていました。

 法皇は、気に入った廷臣や女房を側近に集め、文華的なグループを作っていましたが、やがて政治的な色彩を帯び、法皇側の菅原道真・藤原忠平と、醍醐天皇側の藤原時平・源光との間にも微妙な対立を示すに至りました。

 後に法皇は、仁和寺(光孝天皇の勅願、宇多天皇で完成する)の南に庵を結び、御在所(御室)としたため、御室という地名が生まれ、清涼殿落雷の翌年に亡くなっています。

 醍醐天皇は関白をおかず、終始天皇親政のかたちをとり、施政方針は地方行政の緊縮にありました。

その点では、天皇は学者で詩人で文化的であっても、政治的には消極策をとる政治家であったといわれる道真より、新進気鋭の積極的な政治家である時平らを信頼していたようです。

しかし、積極的とはいえ観念的な施策であり、律令政治復活を主眼とし、決して地方の実態に即したものではなかったと考えられます。

その点では国司として赴任した経験のある道真の方が実態に即した施策であったのかもしれません。

 勅旨開田を一切禁止し、貴族や社寺が寄進・売与の名で地方の勢家からの受けた田地を返還するように命じました。

この画期的な荘園整理令は、時平の補佐を得て断行されましたが、もともとは道真門下をはじめとする官僚の案ではないでしょうか。とすれば、左遷だけでなく、手柄を横取りされたようなものです。

とはいうものの、崩れゆく律令制をくい止めようとする杭を打ち込んだ程度でしかなかったともいえます。

 

 道真の配流の遠因は宇多天皇にあります。

政治的な配慮から敦仁親王(醍醐天皇)を後継者に定められましたが、宇多天皇は橘義子(父は阿衡の起草者橘広相)との間に生まれた斉世親王をより多く愛し、道真の娘を娶らせており、宇多と醍醐の不協和音の原因となりました。
また、道真を時平の上に置こうとした気配も見えました。

 宇多法皇が藤原氏の権力を制限する意図のもと、道真に全幅の信頼をおかれたこと。また、道真の三人の娘のうち、衍子が法皇の女御、寧子が尚侍、もう一人が斉世親王の室となって男子(源英明)を生んでいること。

時平は自分の弟の忠平が宇多法皇の側近であること。

将来、斉世親王が皇位に就くようなことがあれば、道真が外祖父として権力の中心となり、藤原氏に代わることになります。

これらを総合すれば、時平が危機感を抱いても不思議ではありません。 

そこで、時平は道真が醍醐天皇を廃し、その娘婿である斉世親王を立てようとし、宇多法皇の同意を得て、この計画を進めようとしていると讒言。

醍醐天皇にとっても斉世親王は脅威であったと思われます。

延喜元年(901)正月25日、道真を大宰府権帥として、追放することにしました。(昌泰の変)

 宇多法皇は驚き、内裏に馳せ参じたが、左右衛士が諸門を警護しており、門は堅く閉ざされ、法皇は中に入れず門外に終日座りつづけましたが、どうにもならず還幸したと伝えられています。最も、それ以後、宇多法皇が道真のために何か動いたということはなかったようです。

日本では、古来より娘を天皇家に嫁がせ、その子を天皇にし、外祖父として、権力を維持してきました。

「外祖父」という立場に制度上の名前がつけられたのが、いわば「摂政」であり「関白」であったといえ、藤原氏は摂関を独占し、実質的に支配していく政治形態を貫いています。  

決して天皇家をライバル視せず、藤原氏はあくまで「大樹の陰主義」であるといえ、決して「大樹」即ち天皇家に成り代わるという思想はなかったように思われます。

従って、藤原氏のライバルは、天皇に対し、藤原氏と同様の立場に立つ可能性のある者、即ち、娘を天皇に嫁がせ、その子を天皇の位につけさせる力のある者といえます。

平安中期時代、藤原氏以外で「摂関」に成り得る人はたった2人であり、その一人が菅原道真であり、もう一人が源高明です。

藤原氏としては、その祖鎌足から不比等……良房・基経を経て時平の菅原道真排斥をもって、旧豪族系の、あえて言えば国津神系有力氏族・支族の滅亡或いは制圧、没落を完全に成し遂げたといえます。

この間「乙巳の変」から数えて約250年。 

平安中期の藤原氏の最大のライバルは、これもあえて言えば、天津神系であり、嵯峨天皇がその基をひらいた賜姓源氏。

その源氏を没落させるのは、道真の没後約70年を経過した「安和の変」(969年)において、源高明(醍醐天皇の皇子で、母は源唱の娘。920年臣籍に下り、師輔の娘を娶り、その娘が村上天皇の愛児為平親王の妃となった)を道真同様大宰権帥に左遷させたことをもって、藤原氏の他氏排斥が完全に終了したといわれています。

以後「摂関」は藤原氏の独占として、他氏に奪われる可能性がなくなり、一族間、特に藤原北家内の争いへと発展。最終的に、同じ藤原氏の中でも特別な家柄のみが就任(五摂家)できました。

これまでは、菅原摂関政治や源摂関政治が実現する可能性もあり、そういう意味で、藤原氏としては、道真や高明は何が何でも排除しなければならない存在であったといえます。

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