平安時代初期の日本は天皇親政体制で、以降の政治の流れを端的にいえば、藤原氏が摂政・関白となり、天皇家から政治の実権を奪う歴史ということが出来ます。

51代嵯峨天皇は、直系皇子が続かず、天武系が断絶したことをみて、自分自身の血を引いた子供たちを数多く作ることにより、天皇家の権力を、そして嵯峨自身の血筋を強化することを考えたようです。

また、父の桓武天皇が自らの権勢を獲得する為に、そしてそれを維持する為に作り出した怨霊に怯えたことを目のあたりにした、この嵯峨天皇。薬子の変以後から武士が台頭してくる平安末期の保元の乱まで、350年近く怨霊を創らないため都での処刑は一回も行われませんでした。

嵯峨天皇は、身分の低い母親の子供たちに、姓を与えて臣籍降下させました。
源姓となったものを賜姓源氏といい、嵯峨天皇から分かれた源氏を嵯峨源氏、清和天皇から分かれた源氏を清和源氏と呼び、17流あるといわれています。

52代嵯峨天皇


臣籍降下させた理由として、親王であれば国費で待遇しますが、数が多いため、財政上の負担が大きくなったためといわれています。

それもありますが、対象となる親王は皇位につく望みはなく、江戸時代の次男三男のように、一種の「部屋住み」で、逆に身分が高いため官職にも就きにくく、臣籍降下すれば藤原氏や他の貴族と同列のため、抜擢も出来ることが本当の目的と思われます。

第54代仁明天皇は嶬峨天皇の第2皇子正良親王。母は橘嘉智子(檀林皇后)。皇太子には、先帝淳和の皇子垣貞親王が立てられましたが、この時すでに源氏は朝廷における要職を占め、藤原氏と拮抗する勢力になり、元々源氏は皇族ですから、天皇家としての「総合力」は、藤原氏より勝っていたとも考えられます。この意味で、「天皇家の権力を守る」という嵯峨天皇の意図は達成されたといえます。


54代仁明天皇

承和9年(842)嶬峨天皇が亡くなってすぐ、檀林皇后の元へ平城天皇の第一皇子阿保親王から、伴健岑や橘逸勢らの取巻きが皇太子を擁して東国に入り、新しく天皇として立てようと画策しているとの手紙が届けられました。檀林皇后は事件の処理を、左大臣・右大臣・大納言を差し置いて、「中納言」で右近衛大将(武官の最高職)だった「藤原良房(よしふさ)」に委ねました。

当然、良房は仁明天皇に奏上。

承和九年(842年)717日、伴健岑と橘逸勢をはじめとする彼らの一味を逮捕したのです。

慌てて、恒貞親王は皇太子を辞退する旨を仁明天皇に伝えますが、「親王自身は計画に関与していない」と判断され、一旦、保留に・・・

しかし、6日後の726日に事態は一転し、良房の弟=藤原良相(よしみ)ら近衛兵が恒貞親王の座所を取り囲み、出仕していた大納言=藤原愛発(ちかなり)、中納言=藤原吉野(よしの)、参議=文室秋津(ぶんやのあきつ)らが逮捕されました。

その後、仁明天皇の詔(みことのり)により、恒貞親王は皇太子を廃され、伴健岑と橘逸勢の両名は、謀反人として、それぞれ隠岐(おき)と伊豆に流罪・・・以下、多くの関係者が処分されました。

檀林皇后は、夫嵯峨天皇の意向に背いてでも、実子仁明天皇の子道康親王(文徳天皇)の皇位継承を期待し、良房の企みは見事に成功しました。

この結果、檀林皇后にとっては嫡孫で、良房にとっては妹・順子と仁明の間に生まれた甥の16歳の道康親王を皇太子としました。

在原業平の恋人は高子ですが、順子と近親の間柄なので一緒に住んでいたらしく、この順子の家は五条の南にあったことから順子は「五条の后」と呼ばれていました。

嵯峨天皇の死後、2日目にして「承和の変」がおこっており、檀林皇后の情念は、かつて愛息草壁皇子の即位を実現するために大津皇子の抹殺をも辞さなかった持統天皇と変わりなく、たった2日ということは、それ以前より計画されており、間髪をいれず実行したとしか考えられません。

檀林皇后と良房は、かつての持統天皇と不比等の関係によく似ているといえます。

この皇太子追放劇である「承和の変」は、摂関政治成立過程における藤原氏の伴氏・橘氏という古代貴族の他氏排斥として捉えられており、藤原氏が以後、天皇の外戚として、権力をふるうきっかけを演出した事件とされていますが、実態として伴氏・橘氏の政治的地位は藤原氏にとって、既に脅威ではなくなっていたと思われます。

仁明没後、24歳の第55代文徳天皇が即位。践祚の5日後、良房の娘明子との間に第4皇子惟仁親王(清和天皇)が生まれました。

即位同日に皇太子を定める先例に従って、生後9ヶ月の乳児惟仁親王が立太子を行いましたが、1歳にも満たない皇子が皇太子となったのもこれが最初です。

文徳天皇の第1皇子は惟喬親王、第2皇子は惟条親王、第3皇子は惟彦皇子、そして第4皇子が皇太子惟仁親王です。3人の母の出自氏族には、良房に対抗する力はありませんでした。

文徳天皇は32歳で急死、良房は宮中を兵に守らせ、惟仁親王を即日践祚、母后明子を迎え、9歳の幼い天皇を守らせました。

 第1皇子の惟喬親王は、出家し、洛北小野里(現大原)に隠棲。従兄弟の在原業平が訪ねたのはその直後といわれています。

「忘れては  夢かとぞ思う おもいきや 

        雪ふみわけて  君を見むとは」

 惟喬親王伝説は琵琶湖の東へと広がりをみせ、奥深い山中で椀・盆・杓子等の木地物を造る人たちの祖神として崇められていきました。天皇の第1皇子でありながら、奥山に隠遁されたことへの同情の念と、人里離れた山奥に住みながらも、職人芸を誇る人々が求めた心理的支柱への願いとが結ばれ信仰化されていったのかもしれません。

ちなみに、従兄弟の在原業平、仁明天皇が亡くなる際に身の危険を感じて出家したといわれる僧正遍昭、文徳天皇即位直後意味不明の左遷をされた文屋康秀、謎の陰陽師喜撰、小町田を支給されなかった小野小町など、作家高橋克彦説のように惟喬親王に特に近い人々が、俗に「六歌仙」と呼ばれている人と重なっていることは、偶然の一致とは考えられません。

在原業平は、後に清和天皇の妃となる、良房の娘高子を誘惑し駆け落ちまでしましたが、良房には后に立てられるような娘は高子しかおらず、この「恋」は、藤原氏の権力低下を目論んだものであるという説が流布されています。

 第56代清和天皇は、生後9ヶ月で立太子、9歳で即位した天皇です。

良房は、幼い天皇を誕生させましたが、清和天皇は即位後も内裏に移らず東宮に住み、その間内裏は天皇不在のままでした。

外祖父の良房が政治の中心「内裏」から事実上天皇を追放し、太政大臣としての立場や、事実上の摂政として、政務の全権を掌握し確立させていったことはいうまでもありません。これが「人臣摂政」の初めです。

文徳天皇が32歳という若さで急死しなければ、後の藤原摂関政治は生まれなかったかも知れません。

清和天皇17歳の時、良房は姪の高子を女御として後宮に入れました。

高子が、仁明皇后の順子の邸宅に住んでいた時の在原業平との仲を精算し、世間のほとぼりが冷めるのを待たなければならなかったため、入内年齢は当時としては高齢の26歳でした。

入内後、高子は貞明親王(陽成天皇)を産み、親王は生後3ヵ月で皇太子に立てられました。
一方で、他の女性から生まれた皇子たち8人は臣籍に下されました。

清和天皇の退位のあと、貞明親王が9歳で皇位をつぎました。
第57代陽成天皇です。

良房の養子基経が摂政として実権は握っているものの、天皇の素行は目にあまることが多く、基経は、在位8年目に陽成天皇を退位させたあと、仁明天皇の皇子で、祖母の檀林皇后にかわいがられた時康親王に白羽の矢を立てました。第58代光孝天皇です。

その理由は、基経とは従兄弟であり、即位後は、政務の決裁をすべて摂政に任せるかたちにもっていけたからでしょう。

 慎ましい生活振りで町人からもいろいろと用立ててもらっていたらしく、即位後に次々に取り立てにやってこられ、宮中の役所が返済に当たったといいます。

 清涼殿の北にある黒戸御所は、この天皇のときに設けられ、天皇がまだ「ただの人」であったときに自分でしていた事を忘れず、皇位に就いた後も、ここで炊事をしていた為、薪のために煤けてしまってその名がついたと徒然草に記されています。

 天皇は、太政大臣の職掌について、道真を始め多くの博士たちに意見を聞き、太政大臣の職掌の有無、及び唐制のいかなる官に当たるかを調べさせた結果、太政大臣には職掌なしという結果が出されました。

 基経にすべてを任せる旨、即ち、「天皇を輔け、百官を総べしめ、天皇より臣下に下すべきこと、天皇に奏上するべきことは、必ず先ず諮稟せよ」と仰せられました。事実上の「関白」の始まりといえます。

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