長岡京遷都早々、藤原種継暗殺事件が起こり、そのドサクサを利用して、桓武天皇は生まれたばかりの安殿親王を皇太子にすべく、早良皇太子に罪を着せて幽閉したというのが現在の定説のようです。

皇太子は食を絶ち天皇に抗議。桓武天皇は、我が子可愛さに、過酷な決断をし、淡路に流される途中に絶命しても、そのまま屍を淡路まで運び、葬りました。

皇太子の死後、天皇の周辺に桓武天皇の夫人藤原旅子(藤原百川の娘)・生母高野新笠・皇后藤原乙牟漏(藤原良継の娘)と死没が相次ぎ、安殿皇太子も病に倒れ、かつての自分のように、伊勢大神宮天照大神のもとへ安殿皇太子を行かせましたが、翌年になっても平癒せず、世上では厄災・災異が相次ぎました。

桓武天皇にとっては、打ち続く近親者の不幸や皇太子の病気は、かつての経験からも早良親王の祟りだと感じたことでしょう。

藤原四兄弟の没年に生まれ、天武持統朝滅亡を実体験として知っている桓武天皇。

長屋王のような怨霊を出現させることは、光仁桓武王朝の滅亡を意味します。にもかかわらず、桓武天皇は我が子可愛さから、早良廃太子という怨霊を出現させてしまいました。

近親者が次々に亡くなり、疫病が流行し、桓武天皇は当時の人間として、怨霊の霊威のものすごさを肌で感じていたからこそ早良廃太子の怨霊をなりふりかまわず恐れました。

当然、桓武天皇にとっては、怨霊を鎮魂できない伊勢神宮も大仏も、役に立たないと思ったに違いありません。

井沢元彦氏の言を借りれば、『一家断絶した、いわば家相の悪い平城京を捨て、新築しようと長岡京へきたものの、そこからも怨霊に追われたかたちでの遷都を行い、平安京に「怨霊恐怖の政治」という原則を持ち込んだことによって、平安京の「政治と社会の骨格」を形成してしまった』ということになります。

『怨霊から逃れるためには、新しい家(都)の周囲に新しい宗教による霊的バリア(防御装置)を張り巡らせる必要があり、そのために先進国の唐に留学生を派遣し、学ばせる必要があった』ということにも繋がっているのかも知れません。

これは、最澄・空海が登場する歴史的な役割であったともいえ、所謂奈良仏教ではなく、先進国唐の新しい宗教「密教」に、天皇以下貴族たちはのめりこんでいったと思われます。

 原則は、一度根づくと、次はその原則に見合う事実が要求されることとなります。つまり「怨霊恐怖の政治」原則は、新たなる怨霊を次々と生産することになります。

「桓武天皇が亡くなり、平城天皇が即位。弟の伊予親王が皇太子になったが、たちまち謀叛の疑いをかけられ、母の藤原吉子とともに伏見の川原寺に幽閉され、母子ともに服毒して死んだ。」

 こんど何か異変があれば、それは伊予親王母子の怨霊の祟りであると決まったようなものです。そして、その極めつけが、菅原道真であったわけです。

この左遷配流事件がなければ、悲劇的な運命・悲惨な死を遂げなければ、平安初期の優れた学者の一人として名をとどめたに過ぎなかったかも知れない道真。

道真のような運命を辿った者は、彼の前にも後にも幾人もいた筈です。

その中で特に「神」に祭り上げられ、後世まで伝えられるのは、道真がこうしたまぎれもない「時代の子」だったからと思われます。

 「怨霊・…おんりょう・…御霊」という変化は単なる言葉の綾ではなく、「祟るのを止めてください」と死霊に願うための高度なる政治工作の産物であり、これが、道真が生まれた平安初期という時代の思潮といえます。

 恨みを残して死を遂げた人々の霊に対する唯一のつきあい方は、その霊を一人前のものとして認め、祟る権利を決して奪ってはなりません。

「霊を慰める」と言うなら、その前に霊を畏れる気持ちを持っていなければなりません。

 「怨霊」といわずに、畏敬の念をこめて「御霊」と呼びかける事で、人間と御霊との間に交渉の糸口をみいだす事が出来るのでは、……われわれを苦しめる天変地異や疫病の原因、それは怨霊の祟りである・……9世紀の庶民は、こういう結論を出しました。

 怨霊を恐怖するのではなく、敬い、なぐさめることによって祟るのを止めて頂こうではないか・…これが御霊会というものの底を流れる精神と思われます。

 京都盆地は、降雨量が多いところへ、「平安京造営」のとき、元来は、いまの堀川の筋を流れていた鴨川を東に移し、八瀬・大原から流れ込んでくる高野川との合流点をもっと上流につくりかえました。

 平安京の区域を別々に流れぬける筈の二本の川を一本にし、しかもその合流点が上流につくられたのだから単純に考えても洪水に見舞われる危険も倍です。

 雨が続けば、一面の水浸しになり、水が退いた後は、疫病の流行、病死、そして怨霊の恐ろしさが、前以上に喧伝される……。

 怨霊信仰が弘まった期間は9世紀前半に最盛期を迎え、都市生活に宿命的な疫病が京都の人々を悩ませていました。
 これは水の都・難波津、つまり小坂(豊臣秀吉が大坂と改名・明治になって大阪と改称)も同様であったと考えられます。

食中毒、コレラ、赤痢やインフルエンザのようなものらしいのですが、ハンセン氏病や天然痘の害もひどかったらしく、京の町では、怨霊信仰が、まず庶民の間に始まりました。

「日本三代実録」には、貞観5年(863)それまで庶民の怨霊信仰に対して冷淡であり、「流言蜚語の類」だとして取り締まっていた朝廷が、この年から朝廷自らが主催して大規模な御霊会を開催したことが記されています。場所は神泉苑でした。


神泉苑

そこでは、雑技や散楽を競い、相撲、騎射などの諸芸が演じられ、風流に華美を競い、左右の近衛中将という高い位の役人が運営指揮を命ぜられた記録がありますから、朝廷としてもかなり本気で取り組んだと思われます。 

 こうした怨霊は、災難の結果であると共に原因で、祟りをなして災難をもたらします。この人たちの生霊をあの世へ送る必要があり、まとめて葬式をする御霊会というものが始まったものと考えられています。

 都に猛威をふるう疫病神、祟りをなす怨霊を、行列をつくって都のはずれの葬儀の地へ送り出し、さらに念を入れて遠く海へ流してしまおうという……。

 正暦5年(994)疫病が大流行したとき、世間から自然発生的におきた御霊会は北野舟岡山で行われ、雅楽の伶人を招いて楽を奏し、幾千幾万ともしれぬ人々が幣帛を捧げたといいます。そして御霊をはるばると難波津へ送り、海に流そうとしています。

 菅原道真や早良親王のように位の高い、宮中で政治的な抗争の中で非業の死を遂げたような人達は、特定の御霊として神社をつくって祀られますが、一般庶民、名もなき者たちはまとめて祀られます。

 そうした御霊会が次第に神社の祭りとして定着していったものと考えられ、今に続いている代表的なものが、祇園御霊会=祇園祭りであるといえます。

稲荷社の稲荷御霊会というのもありました。
 八坂神社そのものの起こりは7世紀のなかば、怨霊信仰の始まりより古いのですが、貞観11年(896)の御霊会で、「今年の災害は素戔嗚命の御霊の祟りである」と言い出した者があって、彼らは八坂神社の祭神のひとつ、素戔嗚命(牛頭天王と同一視されています)の御霊を鎮めるために八坂神社の神輿を、神泉苑に担ぎ込みました。

このときから八坂神社は、新しく御霊神社の性格を加えたわけです。何しろ素戔嗚命は神話時代における最強の「荒ぶる神」で、この神が本気になって祟ったら、朝廷も市民の暮らしも何もかも吹っ飛んでしまう。そういうわけで、八坂神社の御霊会がほかの神社の御霊会を圧倒して、いまでは祗園祭といわれる大がかりな御霊会になったといわれています。

疫神を歌舞演劇で慰撫し、都市民の年中行事の「夏まつり」として定着していくものの、同じ御霊会とはいえ、律令政治の展開のなかでおこった「政治的敗者の特定の御霊をまつるもの」とは性格を異にすると思われます。

「まつり」が、さまざまな芸能音楽を伴い執り行われるのも、こうした古代の御霊会の伝統を受け継いでいるのかもしれず、都市の祭礼として発達しながら、芸能の展開にも大きな役割を演じてきたといえます。

 

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