京都では御霊神社です。
早良親王、井上皇后、他戸親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂、吉備聖霊、火雷神ら「八所御霊」を祭神としています。
「その人」ではなく、明確に「その人の御霊」を祭神と規定しているところに、御霊信仰の深さがあります。
古代、人間の魂はその人の自生のものではなく、魂は浮遊するものであり、外からきて身体に付着し、また脱け出しもすると信じられていました。
日本では、「我思う故に我あり」「私は私」という自同律の陥穽は近代以降であり、「私は私であって私でない」という魂の他者性こそ、中世前期の信仰の実質を決定していたといえます。
神仏の霊異譚を中心とした説話の生成などの基層には、神仏の働きへの敬虔な眼差しと、信仰のこころが充満していたといえます。
慈円は「愚管抄」の中で、「冥」と「顕」について、「物事の背後には、目に見えない冥の道と、目で見ることの出来る顕の道という二つの道筋があり、それらが表にあらわれたり内にこもったりしているのが明確にわかってくる(巻第七)」と書いています。
冥界からの神仏の示現は夢や宣託、病気や幻覚という形で人々の上に働きかけ、人々は五感を通じて神仏を体感すると言う直接体験にあったといえます。
異界からの訪いを全存在を傾けて聞き分け、「冥」の世界を参照しながら日々の暮らしを営み、また政治を、歴史を展望していた当時の人々にとって、霊は身近なものでした。
奈良時代の末頃から天変地異がつづき、疫病が流行し、政争が絶えず、人々は疲幣し、絶望し、打ち続く災難におびえていました。
そこで民衆は、そうした不気味な世情を、権力抗争に敗れて、あるいは巻き添えにて非業の死を遂げた人たちの怨霊の祟りではないかと信じるようになり、御霊会という「まつり」が盛んに行われていたと伝わっています。
御霊神社(通称・上御霊神社(かみごりょうじんじゃ) )
794年(延暦13)桓武天皇の勅願により崇道天皇を祀ったのが始まり。その後仁明、清和天皇時代をへて不運のうちに薨じた7柱が合祀され、863年(貞観5)悪疫退散の御霊会が勅命で催された。のちに明治天皇の御願により祭神五柱が増祀された。
御祭神は「八所御霊」と称される。崇道天皇、他部親王、井上皇后、火雷神、藤原大夫人(藤原吉子)、文屋宮田麿、橘逸勢、吉備大臣。火雷神と吉備大臣(聖霊)は後年追加された。
文正二年(1467)畠山政長がこの御霊神社の森に立てこもり、畠山義就と戦いを交えたのが応仁の乱の始まりといわれ、鳥居のそばに「応仁の乱発祥の地」の石碑が建っている。
こうした御霊信仰・怨霊信仰は、道真の時代にいわばその最盛期を迎えていたと考えられています。
そして、祟られるには、本人に十分な「覚え」「うしろめたさ」があること。この「覚え」があるということが御霊信仰の核心で、「覚え」のないものには何者も祟りません。
また、怨霊は「その人の家」に取り憑くものと信じられており、同じ一族兄弟であっても「家」が違えば祟らない。
怨霊は、深く恨みに思う人に取り憑き、その家からやがて天下へと及んで世を乱し滅ぼすものであるから人間世界の憎悪と同じといえます。
そして政治的策謀の道具に使われたとしても、換言すれば、その時代の人々の心底に根強い怨霊信仰があったからこそ、策謀が成立したといえます。
古代中国では「子孫の祭祀を受けられない人(霊)が祟る」という信仰があり、日本にもその信仰があったことは、日本書紀崇神天皇紀からでもわかります。
「天罰」の思想は中国から入ってきたもので、「神罰」は西洋からきたものです。日本では古来より「罰」を下すのは天照大神をはじめとする八百万の神ではなく、怨霊が「罰」を下すと考えられていました。
聖徳太子時代まではおそらくそうであり、以後の「無実で殺された人(特に政治家)が祟る」という御霊信仰は、日本独自の発展を遂げた結果といえます。
その転換期は、729年、聖武天皇の夫人であった光明子を、「臣下として始めて皇后になる」ということを反対した左大臣長屋王が、無実の罪で殺されたことに端を発していると思われます。
その無実の罪を着せた加害者であるといわれている藤原四兄弟を僅か4ヶ月の間に全滅させた疫病をはじめ、凶作・飢饉・地震が頻発したのは長屋王の怨霊の祟りであり、天皇家が子孫に恵まれないことも含まれます。
当時は天皇家の安泰即ち国家安泰ですから、国家鎮護即ち怨霊鎮魂になります。
長屋王をはじめ、死罪となったその幼い子供たち、また持統藤原朝において罪なく殺害された皇子たち(大津皇子・安積親王等)の鎮魂の為に、聖武天皇と光明子は大仏を発願し、741年から各国府の所在地に金光明四天王護国之寺(国分寺)・法華滅罪之寺(国分尼寺)を造り、770年代に、ほぼ全国に造立をみました。
しかし、当時の世界最強の仏教・国家鎮護の大仏の力をもってしても、天武持統朝は長屋王の怨霊のまえに、呆気なく滅亡。
本来二度と皇位が回ってくるはずのない天智系に皇位が回ってきました。
光仁天皇の皇后で、聖武天皇の血を引く井上皇后と他戸皇太子母子を冤罪で廃立し同日の奇怪な死によって、なれるはずのない山部親王(桓武天皇)が皇太子となりましたが、その三ヵ月後に、光仁天皇擁立の立役者藤原蔵下麻呂、藤原良継が相次いで死に、天皇自身病気になり、皇太子も病に倒れ、翌新年の儀式も取りやめになるほどでした。
慌てて井上皇后の改葬したのは、天皇及び皇太子の病が井上皇后の怨霊にかかわりあると認めた上の措置と考えられます。更に淡路廃帝(後に淳仁天皇と贈諱される)の墓も山陵としました。
寺での読経や神社への奉幣が繰り返され、皇太子自身、平癒祈祷に伊勢神宮にも参詣しましたが効き目がなく、追い討ちをかけるように藤原百川が病死し、光仁天皇も病に倒れ、譲位しました。
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