皇太子は、次の天皇たるべき皇族を指すわけですが、本居宣長が「古事記伝」において、「古は太子は一柱に限らざりし」と指摘しているように、天皇の生存中に次期天皇継承予定者を一人決めておくということは、律令制以前の社会で成立していたということには疑問があります。

複数の有力な次期天皇継承予定者群がいて、その中から多くの豪族たちの支持を得たものが天皇に就任する・・・というものだったと思います。

律令制官僚制の時代となれば、豪族層はどこかのポストを得ることが自己の政治力を維持するための唯一の手段となりました。

今まで天皇という特別な人格に直接関係することから、官僚制という制度を媒介に天皇と間接的に関係する時代となりました。

豪族たちは、皇族の中から誰を支持するかということより、いかにして高位高官に昇るかということに変わってきました。

そのあたりから、国家を安定させるために次の天皇位継承者を決めておくことが要求されるてきたのではないでしょうか。

従って、壬申の乱の経験を踏まえ、律令制国家の安全装置の一つとして「皇太子」という概念が作り出されたと考えられ、天皇位後継者たる「皇太子」というものは、「飛鳥浄御原律令」制定以後、敢えて言えば「大宝律令」以後のことだと思います。

「我が国最初の皇太子」は草壁皇子の息子で、橘三千代が乳母として育てた珂瑠皇子(文武)しかありません。

草壁皇子は、天智天皇の血統(鵜野讃良うののさららのひめみこ)と天武天皇の血統を引く、どちらの血統を支持する者にとって異論の出ない皇子です。

草壁の立太子は、中大兄・大友型の「左・右大臣」の上位者としての政治的地位の獲得と同じであり、「皇太子」ではなく、大友が拝した「太政大臣」への就任を意味するだけだったのではないかという説があります。

 

なぜなら、位階制の改定の際、草壁にも「浄広壱位」が授けられました。律令制下では、親王は一品二品という品位を設けて他と区別されましたが、皇太子は天皇と同じように位を授ける立場に属する者ですから、無位でした。位階を授けられたということは、皇子中最高位とはいえ、他の皇子たちと同じ次元であったということです。

草壁皇子尊=日並()皇子尊ですが、高市皇子も皇子尊と万葉集などには記されています。

万葉集によれば、その当時から草壁は日並()皇子尊と認識され、高市も同様に後皇子尊と認識されていました。

日並()皇子尊の殯宮の歌の注に、「後皇子尊」の時の歌であるとも記しているし、後皇子尊は高市皇子をさすことは言うまでもありません。

当時の人々が、高市を「後皇子尊」と呼びならわしていたということが言えると思います。

「後」があるということは、「前」がある。即ち、誰かの次だと考えていた筈で、「誰」かと言えば、それは草壁しか考えられません。

高市が太政大臣なら草壁も同じ、つまり、与える側ではなく、臣下最高位ではあるが、「皇太子」ではなく太政大臣の職であったと思われます。

 

草壁の死後、その政治的地位は高市に引き継がれ、高市の死の翌年に、珂瑠皇子(文武)の立太子、その半年後に即位しました。

高市の死があまりにもタイミングが良い為、暗殺されたのではないか、不比等の仕業だという説がありますが、不比等の父鎌足であれ、武智麻呂4兄弟であれ、後の藤原氏の他氏排除の手段であれ、藤原氏には独特のやり方があり、問題を大きくし、でっち上げであれ何であれ表沙汰にしています。

なぜならば、その個人を取り除いても、例えば氏の長者を取り除いても、その一族の中からその長者に代わる新しい長者が必ず出てくるわけで、その一族そのものを没落させなければあまり意味がない。

 つまり、高市がひっそり亡くなっても、後の長屋王を見てもわかるように、「高市家」が没落したわけではないのです。

中途半端なやり方では逆襲されてしまう恐れがあり、藤原4兄弟のように謀叛という大きな問題にして一気に抹殺するというやり方です。

大伴、源などの例が多数みられます。

高市皇子が暗殺されたとするなら、不比等ではなく三千代の方がふさわしいのではないか。

天武は遁甲を能くしたと伝わっています。

長年天武の舎人として身近に仕え、吉野について行った朴井連雄君・村国連男依・和珥部臣君手・身毛君広・大分君恵尺・縣犬養連大伴などは武系であり、天武から色々と学んでいました。

乱の後、それらの知識は、武の家系を保ち役立たせるために、それぞれ一族の若者にも伝えられているでしょう。

 

持統の年齢を考え、日増しに高まる高市の施政に、このままでは文武が即位できないかもしれないと心配し焦っているのは、持統・阿閇・三千代ラインであり、持統・阿閇の思いを汲んで三千代が一族の者に命じたと考える方が、やり方として整合性があるのではないかと思われます。

「懐風藻」の葛野王(かどのおう=大友皇子の長子)伝記によれば、高市の死後の群臣会議が皇嗣を巡って紛糾したとき、王は子孫相承を主張して、他言を退けたとあります。

天武系・天智系の血統を考えれば、長皇子・弓削皇子(母はともに天智の娘大江皇女)も当てはまります。

壬申の乱という皇位継承時の国家分裂の危機を身をもって体験した当時の皇族や氏族の長らの支配者層は、深刻な問題を未然に防止することを求め、天武嫡系による皇位継承を貫徹するために不比等たちが創作して共同幻想した「不改常典」に相通じるものを、暗黙の裡に持っていたのではないでしょうか。

だからこそ、草壁直系を画策した持統や不比等たちのプランが通ったということでしょう。

律令に基づく支配体制の形成、律令制的官僚制の完成に伴い、天皇の権力は官僚制の外側にあってこれを律するものとしたとき、初めて次期天皇を定めておく、「皇太子」という方法を考え出したのではないかと思います。

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03 草壁は本当に皇太子だったのか

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