欽明は蘇我系、宣化は継体直系。蘇我・継体の両方の血筋を引く天皇の即位は、両勢力の合流であり政権安定に繋ると考えられました。 結局両方の血筋を引く舒明が即位した時に念願が叶う。いわゆる息長系も大躍進。 但し、この息長系は壬申の乱で天武側に寝返った羽田公以下2~3人以外は、乱の後はすべて姿 を消し途絶えてしまいました(詳細は別稿にて掲載する予定) 天武8年(679)、天武天皇は吉野の宮で皇后及び6人の皇子たちに、「千歳の後、事なからんことを欲」して「盟」を求めました。皇子らは同意し、草壁皇子が、異母兄弟ではあるが「俱(とも)に天皇の勅に随って、相扶け忤(さから)うこと無」」いことを誓うと、あとの5人のもこれに続きました。天皇は6人の皇子を抱擁し、彼らを同母兄弟と考えると盟し、皇后も同様に盟した・・・とあります。 この「盟」の意味は、「再び皇位継承の争いを起こすことのないよう」にするためであった(日本書紀・岩波書店)というのが、通説になっているようです。 6人の皇子は、草壁皇子尊、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子、忍壁皇子、芝基(しき)皇子。 このうち、河嶋皇子と芝基皇子は天智の子です。 大友皇子を破って樹立された天武政権で、河嶋や芝基が天皇や皇后に「盟」を求められるほどの有力者であったとは、この後の扱いや活躍からみて考えられません。 本来目指していたかどうかは別にして、天武が行っていた「皇親政治」の一環として、従兄弟にあたる2皇子を含め同腹の兄弟然として「一致団結」を約束するのが、草壁の誓言ではないでしょうか。 後継者のことを決めるということは、一般的には自らの引退若しくは死を覚悟するかしてからであり、早くから死後のことを決めても守られるかどうか、誰よりも天武が身をもって一番判っている筈です。 ということは後のことではなく、現在乃至近い未来は、天武がそのまま天皇であり続けるわけで、政務を執る能力を有した皇子たちに、天武自身への一致団結した協力を約束させるということが、天武の目的ではなかったかと思います。 皇位継承問題は、その結果として付属してきたものであり、大まかな方向性が示されただけではないでしょうか。 敏達天皇と同じように、草壁皇子は、天智天皇の血統(鵜野讃良うののさららのひめみこ)と天武天皇の血統を引く、どちらの血統を支持する者にとって異論の出ない皇子です。 壬申の乱の後ですから、それぞれに思惑もあったでしょう。 つまり、この皇子が大王位に就けば、それぞれの背後勢力が一つになれる、より一層の安定政権となるはずです。 大津皇子も同じく天智天皇の血統(太田)と天武天皇の血統を引く皇子ですが、鵜野讃良にとっては、自分のお腹を痛めた草壁に継がせたかったのでしょう、姉の子・大津皇子を粛清します。 草壁は、天皇の下で政権の中枢に参画し、次期天皇の第一候補でありながら、即位予定者としての「皇太子」とは言えない二面性を持った立場であったと思います。 軽皇子(文武)は、天武天皇とその皇后・鵜野讃良皇女との間に生まれた草壁皇子の息子です。 草壁皇子が早くに亡くなってしまったため、鵜野讃良皇女は、自らが即位して第41代・持統天皇となって、幼い軽皇子が成長するのを待ちました。 つまり、三千代を乳母とするこの軽皇子は、すでに将来、天皇になる事が決まったも同然の大切な皇子だったのです。 草壁邸は幼い子供たちと、今でいうご学友・・・のちに氷高(元正)の下での葛城(諸兄)の活躍を考えてみると、葛城や佐為もその中にいたかもしれません。 持統が理事長、阿閇がPTA会長、三千代が保母も束ねる兼園長先生の「草壁幼稚園」であったかもしれません。 県犬養氏は屯倉の守衛等に奉仕しており、その根底には武力を保持していました。 だからこそ「乙巳の変」や「壬申の乱」に犬養の名が出てくるのであり、このことは三千代にとって警備を含め、色々と活用できたのではないかと考えられます。 成長した軽皇子が、第42代・文武(もんむ)天皇として即位しますが、文武即位宣命には、「持統が天智の娘であり天武の皇后であったこと」、「文武が草壁皇太子の子である」ことへの言及はみられません。 即位の正当性の確認として、神話的権威をもつ現帝持統の譲りこそが新帝文武の即位正当性の全てであり、祖母持統の強力な後押しによって、一気呵成に即位に持ち込むしかなかったものと考えられます。 日本独自の太上天皇制度は持統による文武の後見という現実を法制化したものです。 701年に制定された大宝律令をもって、文武天皇の母である阿閇を「皇太妃」としました。 阿閇の「皇太妃としての地位待遇の確立」と、「皇太妃宮職の設置」によって、阿閇は持統太上天皇とともに、「文武を後見する公的立場」を確保しました。 これにより皇太妃の夫である草壁が「皇太子」の地位であって、「天皇に準じる存在」であったというように、後追い的に史実として認めさせたのではないでしょうか。 三千代は大宝元年701年に37歳で安宿媛を産んだ当時では珍しい高齢出産です。 のち、安宿媛の夫となる首皇子(文武天皇と宮子の息子)も同い年で、二人は三千代のもとで兄妹のように育ったと伝えられています。 三千代は首の祖父不比等の妻であり、母宮子の継母であり、夫不比等と政治力を発揮して幼い首を守ることが元明・文武母子が二人に期待したことでしょう。 草壁が日並知皇子として天皇に準じる国忌の対象になるのは、慶雲4年(707)4月であり、同年6月に文武が死去しました。 文武の死の直前に「天皇に準じる存在」でしたということを知らしめておいたと思われます。 15歳で即位し25歳で亡くなった文武には遺詔で諸臣を服させるだけの権威がありません。 従って元明即位の宣命にみる、弱い先帝の譲位意志に権威を持たせる為に動員された文言が、草壁皇太子の嫡子・持統による共治・天智の不改常典の3点であったと思われます。
文武即位宣命(一部抜粋) 高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中・今に至るまでに、天皇が御子のあれ坐(ま)さむいや継々に、大八嶋国知らさむ次々(つぎてつぎて)と、天つ神の御子ながらも、天に坐す神の依(よさ)し奉りし随(まにま)に、この天津日嗣高御座(たかみくら)の業(わざ)と、現御神と大八嶋国知らしめす倭根子天皇命(やまとねこすめらみこと=持統天皇)の、授け賜ひ負(おほ)せ賜ふ貴き高き広き厚き大命を受け賜り恐(かしこ)み坐(ま)して、この食国(おすくに)天下(あめのした)を調へ賜ひ平げ賜ひ、天下の公民(おおみたから)を恵(うつくし)び、賜ひ撫で賜はむとなも、神ながら思しめさくと詔りたまふ天皇が大命を、諸聞きたまへと詔る。 元明即位宣命(一部抜粋) 関(かけま)くも威(かしこ)き藤原宮に御宇(あめのしたしらしめ)しし倭根子天皇(持統)の丁酉(ひのとのとり=697年)の八月に、此の食国天下の業を、日並所知皇太子(ひなみしのみこのみこと=草壁皇子)の嫡子(むかひめばらのこ)、今御宇しつる天皇(文武)に授け賜ひて、並び坐して此の天下を治め賜ひ諧(ととの)へ賜ひき。是は関くも威き近江大津宮に御宇しし大倭根子天皇の、天地(あめつち)と共に長く月日と共に遠く改(かは)るまじき常の典(のり)と立て賜ひ敷き賜へる法(のり)を、受け賜り坐して行ひ賜ふ事と衆受け賜りて、恐(かしこ)み仕え奉(たてま)つらく。 如是(かく)仕へ奉り侍(はべ)るに、去年(こぞ=慶雲三年)の十一月(しもつき)に、威きかも、我が王(おおぎみ)、朕(わ)が子天皇(文武)の詔りたまひつらく、「朕御身労(われみみつか)らしく坐すが故に、暇間(いとま)得て務後病治めたまはむとす。此の天つ日嗣の位は、大命に坐せ大坐(おおま)し坐(ま)して治め賜ふべし」と譲り賜ふ命を受け賜の坐して答へ曰しつらく「朕は堪(あ)へじ」と辞(いな)び白(まを)して受け坐さず在る間に、遍多(たびまね)く日重ねて譲り賜へば、労(いたは)しみ威(かしこ)み、今年の六月十五日(みなつきのとをかあまりいつかのひ)に、「詔命は受け賜ふ」と白しながら、此の重位(いかしくらい)に継ぎ坐す事をなも天地の心を労しみ重(いか)しみ畏(かしこ)み坐さくと詔りたまふ命を衆聞きたまへと宣(の)る。 (現代訳=新日本古典文学大系「続日本紀」より) |
▲index ▲michiyo ▲ページ先頭に戻る |