宮人として天武天皇から聖武天皇迄歴代の天皇に仕えた橘三千代。

15歳ぐらいで朝廷に出仕し、人生の大半を女官として過ごした正真正銘のキャリアウーマン。

宮廷勤めで軽皇子の母(後の元明天皇)や祖母(持統天皇)らの信頼が厚かったのでしょう、出世を重ねていきます。

察するに、頭の回転が速く、想像力があって人の使い方などがうまいタイプなのかもしれません。

奈良時代の政治や文化を語るうえで、避けて通れない優れた息子と娘を生み育てた・・・光明皇后や左大臣橘諸兄の母。

死後、女性としては最高位の従一位を授与された県犬養橘三千代とは、どのような人だったのでしょうか。

注 藤原不比等の生存中は、「不比等」の文字は一切使われておらず「史」のみですが、理解しやすいように「不比等」に統一しました。

平城京から発掘された木簡には、県犬養道代と書かれたものが発見されています。

出家した時に三千代に変えたという説もありますが、これも三千代に統一しました。

 

県犬養氏は、古くから屯倉の守衛等に奉仕した「氏」だったようです。

『日本書紀』安閑天皇259日条に、数カ国に屯倉=大和政権の直轄地を設定した記事があり、次の81日に「詔して国国の犬養部を置く」とあるので、この「犬養」は屯倉の警備に就いたという説があります。

また、地名の分布でも「犬養」と「三宅(屯倉)」に近接関係が確認されているそうです。

乙巳の変、つまり中大兄・鎌足らによる蘇我入鹿暗殺事件のさい、『書紀』に記されている実行メンバーは海犬養勝麻呂・佐伯子麻呂・若犬養網田です。

宮中の警護にあたるべき人物を味方に引き入れていたことを証明していますが、海犬養・若犬養とも三千代と同族の別系統かもしれません。

県犬養三千代の父は、従四位下県犬養宿禰東人とあります。「連」はありませんが、県犬養連大侶の弟と言う説もありますが、少なくとも近い同族であったと思われます。

本貫は、河内国古市郡のあたりかと推定されています。

 

天皇家の倉庫番をするだけの、いわゆる「大したことのない家柄」だったのですが、彼女の伯父にあたるとされている、最初の段階から大海人側ついており壬申の乱で功績をあげた県犬養大侶がいます。

大侶が病に伏した時に、天武天皇はその家まで行幸しています(天武97月戊寅条)。

天武天皇の殯にあたって、大侶は宮内のことを誄しており(朱鳥元年9月丙午条)、近侍者だったと思われます。

それゆえ、県犬養三千代は、天皇、特に後の持統天皇から注目されたのではないでしょうか。

 

壬申の乱を経て即位した天武天皇は律令官僚制に適合する出身法を定めていきました。

天武2年に、中央豪族に先ず「大舎人」として出仕した後に、才能に応じた職にあてることを命じました。

女子に対しては、既婚未婚を問わず年齢の制限もなく、希望する者の出仕を認め、勤務評価と与える官位は男子に準じることとしました。

8年には、「諸氏女人を貢(たてまつ)れ」との詔が出されました。

「氏女制」の始まりです。

 

令では30歳以下13歳以上と限定。

つまり、13歳は令の認める女性の結婚年齢(結婚してもよい年齢)であるから、宮人は出仕後まもなく結婚するか、或いはすでに結婚している女性が出仕するものと考えられます。言い換えれば、奈良時代の宮人制度は、夫(ほぼ同階級の官人)とともに仕えることを通例とする仕組みであったのではないかと思われます。

三千代の後宮出仕は、大侶との親族関係、あるいは天武8年(679)制定の氏女の制度によるものだろうと考えられています。

氏女は氏長者が一族の中から「端整の女」を選ぶことになっていました。

端整とは「賀富好(かほよき」)こと。つまり三千代は美貌の持ち主だったというわけです。

その三千代をえらんだのは、氏長者であり、その当時の県犬養氏の氏長者は大侶です。

三千代は多数の内の単なる氏女ではなく、天武も持統も信頼する県犬養大侶の推薦する氏女であり、当然のように天皇家の中枢部・・・天皇家の私的生活に近い位置の部署に配属されたのではないかと思われます。

 

夫藤原不比等が亡くなった時には出家しませんでしたが、養老5年(721)元明太上天皇が病気になった時、三千代は入道して平癒を祈願しており(同年5月乙丑条)、二人の間には強い主従の絆が窺えます。

これらのことから、十代半ばの最初の三千代の配属先は「阿閇の宮」ではないかと言われています。

いずれにしても、県犬養氏自体は、国政の中枢に参与するようなランクの氏ではないし、三千代の地位は、専ら彼女自身のその後の働きによると見なければなりません。

 

「阿閇」は天智の娘で、異母姉持統と天武との間に生まれた草壁の妻となり、氷高・軽・吉備の三子の母。三千代の出仕の翌年に氷高が生まれました。

氷高(のちの元正)にとっては、生まれた時から身近にいた三千代に親しみ、頼りにしたと思われます。

元明が軽皇子(文武)を生んだ翌年の天武13年ごろに三千代は葛城王(諸兄)を生んだらしい。

三千代は軽の乳母と考えられますが、朝廷から遣わされた単なる乳母でなく一段上の教育掛りであったのかもしれません。

従って、県犬養氏の一員としてではなく、三千代個人の奉仕と思われます。

後に、不比等との間に設けた安宿媛(光明)は、首皇子(聖武)と同じ大宝元年(701)の生まれです。

こうしたことから、三千代は軽皇子の乳母として元明の信任を得、首皇子の養育にも関わったと推定されています。

親王家配属の女孺は考叙の対象外ですが、乳母になることで、三千代は相応の位禄を得ました。これ以後は自分の勤務次第で昇進する道が正式に開かれたわけです。

 

宮廷に仕えた貴族豪族女性は、一般に女官と呼ばれますが、律令の規定する本来の称は宮人。厳密には官人ではありません。

宮人は後宮十二司及び特別な王族の宮(東宮・中宮・斎宮)に仕える人の意で、奈良時代の貴族豪族女性の公的立場を表すのにふさわしい名称でしょう。

 

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01 県犬養橘三千代とは

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